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絵画の制作技法・構造と効果 |
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マグリットの作品といえば、不思議な絵を思い浮かべる方が大半でしょう。しかし、マグリットの作品はだまし絵なんでしょうか? だまし絵は、視覚的な操作によってひとつのイメージを他のイメージに変容するもの。ではマグリットの作品は視覚による操作をしているといえるか? している作品もあるし、していない作品もある…というのがより正確な言い方になるのでしょう。だまし絵の範疇に収まるわけではない。 では、ひとつのイメージである不思議な世界や想像上の不思議なものを描けば、それで作品が評価されるのか? わかりきっていますよね、答えは否。ではそれを一番最初に始めた? その答えも否。想像上のものとして神話や寓話は以前より描かれている。 では、どうしてマグリット作品は、これほどまでにも評価され、また愛されるのでしょうか? 今回のテーマはこれ! マグリット作品の源泉を辿っていきたいと思います。
■マグリットが意図する“詩的”の意味 日本国内で最も知られているマグリット作品といえば《大家族》になるのかもしれません。荒れた天候の海上に鳥のシルエットがある。そのシルエット部分は青空になっているというもの。 そしてその次に著名なものといえば《ピレネーの城》のシリーズかもしれません。巨大な岩が空中を浮遊し、その岩の上部には城が建造されている。 さて、これらの作品は、だまし絵+想像上の非現実的なものを描いたのでしょうか? そうだ、といえばそうともいえるのですが、実は違う。 何が違うかといえば……それはマグリットの制作に対する姿勢・根本的な思考からの違いです。ちょっと抽象的な話になってきたな!と思われた方、しばらくお待ちを。すぐにその違いがでてきますから。 なにはともあれ、まずはマグリットの絵画に対する考え方を簡単に見てみます。 「私は、絵画というものを色彩をならべる芸術だと考えている。色彩の外見が消え去り、詩的なイメージが、はっきりと現れるようにするのだ」(「詩とは…」 『ルネ・マグリット展』 編集:朝日新聞社文化企画局 発行:朝日新聞社 1994 p39) さて、ここで「詩的」という言葉が出てきました。とかく私たちは“詩的な”という表現を使用する際には、“叙情的な”側面や伝統的な韻、形式などにとらわれがちになります。 また、アートにおける詩とは、先ほど問題となった想像上の産物なのでしょうか? マグリットが意図しているものは違うようです。何故ならマグリットは、詩と想像上の産物とを混同する人が多いと、グチをこぼしていたようでもあります。 そのせいかマグリットは、自身の「詩的」という言葉の意味を次のように噛み砕いて私たちに説明してくれています。 「詩的なイメージは、ひとつの思考をまるごと描写したものであり、そうした思考は、ある方向性を持った配列にしたがって、眼に見えるものからなる身近な形象を結びつけている。眼に見えるものとは、空、人物、木、山、家具、星、固体、碑文といったものである。こうした効果をもった配列とは、想像されたものであっても、非現実的なものではない。詩的なイメージの現実性とは、世界の現実性である」(「詩とは…」『ルネ・マグリット展』 編集:朝日新聞社文化企画局 発行:朝日新聞社 1994 p39) マグリットが「思考をまるごと描写」する意図を持っていたことはわかりました。では、ここでいう「方向性を持った配列」とはどのようなものなのでしょうか? 残念ながら、私はマグリットのこの配列について自身が解説したものを読んだことがありません。現実的な話、自身の源泉をあからさまに公開する必要性はどこにもないわけで、実際に自身で解説したものはないのでしょう。それにそういうことは、わかっている人はわかっていると割り切っていたのでしょう。
■アート(美術)における詩の原理 ここでキー・ワードとなるのは、マグリット自身が語っている「方向性のある配列」。作品は「思考」を描写したものであり、それは「詩的」であるということ。 方向性が決まっているのならば、それは法則であると言えるでしょうし、その法則を利用すれば「詩的」になるのならば、探す場所はただ一点。「詩」の原理に分け入って行けばいいわけです。 でも、そもそも「詩」とは何ぞや? 皆さんは、そう考えたことがあるでしょうか? 詩といっても、それは古くからあり、アリストテレスなどが詩学をまとめてたりします。そして、その形式も多数あります。 ならば、詩の中のどこに焦点を当てればいいのか? それはもちろん、マグリットとほぼ同時代の詩が適当であるでしょう。それも詩人の言葉から探し求めるのが更に適当。更に付け加えるならば、アートに関連した詩人から探すのが最も速い。そもそもマグリットが参加していたシュルレアリスムの運動は、詩人でもあるアンドレ・ブルトンが提唱したものですから。 ではブルドンは詩の効用についてどのように述べているのか? それを簡単に見てみますか。 「詩とは、革命と希望のメッセージなのだ。事実、この詩は、絶望の中にあっても、絶望を許容せぬ。それは、苦悩を革命の源泉と変えることで超越し、呪詛を発した神に呪詛を突き返そうと努める。いつの時代においても、詩は、《ある抗議の展開》として現れ、人間の真の権利の確証であることを宣言する」(「略伝T」『ブルトン詩集』 著:アンドレ・ブルトン 訳:稲田三吉、笹本孝 発行:思想社 1994 p22) 「詩の力は、詩が、自己のもつ次のような機能と手段、すなわち、ランボーの《詩はもはや行動を韻律化せぬであろう。詩は先駆するものとなるであろう》の示すものを自覚することから生じた。――詩は、再度、修辞上の類推を発見するのだ。それ故、以後、詩はもはや、生活をもっとも直接的な様相のもとに描くものではなく、生活を変えうる、世界に対するひとつの行動の手段として考えられるようになる。詩は、また同様に、自己が認識の手段となることを欲する。なぜなら、世界の変革は世界の解釈という問題と不可分な関係にあるからだ」 (「略伝T」『ブルトン詩集』 著:アンドレ・ブルトン 訳:稲田三吉、笹本孝 発行:思想社 1994 p26) (同書を読んでみたい・購入したい方はこちらを ブルトン詩集 アマゾンの該当ページにリンクしています。便利になりました…) ブルトンが詩というものの効力をどのように捉えていたのかはある程度わかると思います。でも、ブルトン自身は詩の生成の仕方やその原理というものを詳しく解説してはいない(いや、私の資料の読み方が悪いのでしょう)。 ならば、もう一人、美術運動を率いた、忘れてはならない詩人を見てみるしかない。それはダダを率いたツァラしかない(個人的な好みが十二分に入ったものの言い方ですが…) ツァラの詩論については、濱田明 氏の著作『トリスタン・ツァラの夢の詩学』(発行:思潮社1999)という好著がありますので、ここから一部引用させていただくと… 「彼は1931年の『詩の状況に関する試論』で、はじめて『表現手段としての詩』と『精神活動としての詩』という詩における二つの対立概念を提起したが……中略……。『表現手段としての詩』は『導かれた思考』に対応する詩であって、そのフォルム(音韻、語法等による表現形式)は伝統的、形式的であり、その内容(あるいは主題)は思想や勘定を既成の表現論理にしたがって表わされるものである。それは極端な場合、事物を叙述する詩や教訓、あるいはなんらかのイデオロギーのプロパガンダとなる詩にまでいたる。そして、このような『表現手段としての詩』が今日までの詩のジャンルでは大勢を占めてきたのである。……(中略)…… 詩は『精神活動』である、とツァラはいう。すなわち、詩はあらゆる「導かれた思考」の枠をこえた、あるいはあらゆる合理的論理的思考形態を逸脱した、人間の意識の深層部で流動する心的活動の直接の表示である。……(中略)……詩は昼間の『合理的論理的思考展開(表現面ではレシ(物語))と対立しつねにその枠組みからあふれだし、その枠組みを破壊する方向で機能する』」 どうですか? マグリットのいっている「詩」というものは、ツァラのいう「精神活動としての詩」の方を指していることは明白なのではないでしょうか。 そして、ツァラらのダダ運動は濱田氏によると、「偶然の原理」「自発性の原理」「原始への回帰」ほかを使用しているということであり、また「詩」の生成の仕方については、「言葉の連合」「言葉の遊び、身振り」「レトリックの文彩」「メタフォール(隠喩)」「イマージュの様式」などなどを使用していると指摘しています。 (同書を読んでみたい・購入したいという方はこちらを トリスタン・ツァラの夢の詩学 アマゾンの該当ページにリンクしています) これらの濱田氏の指摘を絵画に移し変えて行く作業をしていくと、ここではとんでもない分量になってしまいます。それに私の移し変えでは不安に思う方も多いでしょう。 そこで、今問題にしている美術における「詩」の生成、原理について指摘している人がいます。それは飯田善國 氏。飯田氏の著『ピカソ』(発行:岩波書店 1983)は、アートにおける「詩の原理」そのものをもまとめている名著です。 飯田氏は「詩」というものの定義として「一定の空間内において、意識の運動量が最大となる方法には次の幾つかがあげられる。最大な意識の運動は最高の「詩」である」とあげています。その中にはダダの原理でもある「慣習的用法の破壊」や「前代の世界観の否定」などもあげられています。 飯田氏が同書のなかで指摘する「詩の原理」のなかで、マグリットに関係が深いと思われるものを幾つかあげてみましょう。 @ある物や行為を、それ自体とは離れた物・行為と結びつけること。その物同士がかけ離れたものであればあるほど意識の運動量は大きくなり衝撃度は増す。飯田氏はそれを「連結」と名づけています。 A @の延長線上にあるものですが、異質な空間同士を衝突させる B ある物を、異なるある物がそのイメージを代替する。そこに斬新さや新しさが生まれる C 時間や距離などの歪曲。あるものを大きくしたり縮小したり、軽くしたり重くしたり、伸ばしたりすること D 物ごとをあるところで切断、倒置、転移させる E 暗喩。およびこの暗喩のイメージに対して、またイメージとは遠い別の名称(言葉)を与えることによって、意味を宙吊りにする F 反転。あるイメージが他のイメージにもなること (これ以外にも飯田氏は、美術における詩の原理を多数とりあげています。興味が沸いた方はぜひ 飯田氏著の『ピカソ』発行:岩波書店 をお読みください。同書は現在では文庫本になって安くなっています。同書を読みたい・購入したいという方はこちらを ピカソ岩波現代文庫 アマゾンの該当ページにリンクしています)
■作品による検討 さて、上にあげた詩の原理が、マグリットの言った配列に当てはまるのかを確認するために、マグリット作品から見て行きますか。 まず@。かけ離れたもの同士を結びつけるもの。それはFにもなる 《深淵の花》…花と馬鈴 《P.G.ヴァン・エックの肖像》…男性の顔とギター 《黒魔術》…上半身は彫刻像だが、視線を移していくと生身の身体となる 《大きな食卓》…巨大なりんごと岩 《突き刺された持続》…暖炉の壁から煙をあげる蒸気機関車が。 《例外》…葉巻と魚 A異質なもの同士の衝突 《火の発見》…トランペットから炎があがり燃える 《記憶》…頭部の彫刻像のコメカミ付近から血が流れている。Eでもある 《ヘーゲルのバカンス》…開いた雨傘の上に水の入ったコップが。 《親和力》…鳥かごの中に、かご一杯の巨大な卵 《光の帝国》…青く晴れた空。しかし、その下の建物や路地には闇が進入し、街灯が光っている。Cでもある ▲アズポスター協力(販売してます・画像はアズポスターのHPにリンク/明記しておかないと著作権がクリアできないですから。でも参考図版を作らなくていいのは楽です、ホント。皆さんも見やすいでしょうし) B代替 《絶対の探求》…木を一枚の葉が取って代わる 《オールメイヤーの阿房官》…牢獄の塔が木の幹となる(根が伸びている)。@でもある 《ゴルコンド》…山高帽子にコートを着込んだ男性が、雨粒となって空から落ちてくる ▲アズポスター協力(販売してます・画像はアズポスターのHPにリンク/と明記しておかないと著作権がクリアできないですから。でも参考図版を作らなくていいのは楽です、ホント) C時間・距離の歪曲 《ためらいのワルツ》…浜辺に巨大なりんごが2つ置かれている。そのりんごは仮面をつけている。AでもありEでもある 《心の琴線》…山脈にかかる雲の下に巨大なワイングラスが出現 《無謀な企て》…画家が空中に女性を描き生み出している 《暗殺者危うし》…たった今女性を殺害した暗殺者が、すぐに他の者に暗殺もしくは捕獲されようとしている。Dでもある 《透視》…画家が卵を見て、飛ぶ鳥をデッサンしている
D物事の切断・倒置・転移 《ジロン家の肖像》…親子三人が真面目な顔をして立っている。両親は正装だが、息子は裸 《永遠の明証性》…顔、胸、股間、膝、足がそれぞれクローズアップで描かれた5枚の絵を縦に陳列 《誘惑者》…大海原を帆船が水しぶきをあげて進む。しかし、帆船はそのフォルムだけで中は海 《真実の井戸》…スーツに革靴を履いた1本の足だけが立っている 《白紙委任状》…森の中の乗馬。しかし、その姿の一部は森と背景との間で切り刻まれて歪曲している 《人間の条件》…部屋のイーゼルに立てかけられたキャンバスの絵が、窓の外の風景とそのまま一致している 《複製禁止》…鏡に映る自分の姿が後方から見た姿になっている
E暗喩 32《恥辱》…金髪の女性の顔が自身の裸の身体になっている。 40 《精神の自由》…上半身裸体の女性がパイプを吸うでもなく手のひらに乗せている。ここの精神の自由というタイトルが与えられ、そのイメージの遠さから意味が宙吊りになっていく 44《諸世紀の伝説V》…巨大な古代の遺跡の上に、木製の椅子が載せてある。その巨大な古代遺跡も椅子の形をしている 《完全なイメージ》…鏡を望みこむ女性。しかし、鏡は何も映していない(闇) 《信仰の業》…ドアが突き破られ、そこから外と月が見える。ドアの役割の暗喩 《風景の誘惑》…「風景」とタイトルがつけられた額があるが、中は何もなく、そのままその先の壁が見える あげていくとキリがないので、この辺にしておきます。マグリットの「方向性を持った配列」のひとつが詩の原理であることは、証明されたと思いますので。《大家族》や《ピレネーの城》は何を活用しているかは皆さんが見つけてください。そのほか、マグリットの図案を今見たい方は、下記のリンク先を。 ちなみに、こうした詩的言語の要素を数多く用いるためには、できるだけフォルムに忠実な具象の絵であることが必要であったことは言うまでもありません(もちろん、抽象作品においても、そのタイトルや用いる材料によって詩の原理を用いることはできます)。 そして、マグリットはこんなことも言っています。「書かれた詩は、眼に見えないものであり、描かれた詩は、その姿を見ることができる。書く詩人は、身近な言葉によって考える。描く詩人は、眼に見える身近な形象によって考える。書かれたものとは、思考の眼に見えない描写であり、絵画とは、その眼に見えるものの描写である」(『詩とは…』1967年マグリット遺稿/ 『ルネ・マグリット展』 編集:朝日新聞社文化企画局 発行:朝日新聞社 1994 p50)
■マグリットの目指したもの、今も有効なこと さて、では最後の疑問。何故マグリットはこうした表現(詩の原理など)を使用したのでしょうか? そしてそこに詩・イメージを生み出すことによって、マグリットは何を伝えたかったのか? このことについては、マグリットは明確に発言しています。 「思考こそが、人生に価値を与える。あらゆる価値は、思考の賜物である。それは自由を与える。思考とは、本質的に自由なものなのだ。それは光である。しかし、人生のありふれた時にも、尋常ならざる時にも、私たちの思考は、その自由を全て発揮しているわけではない。それは、私たちの身辺に起こるあらゆる事物によって、絶えず脅かされ傷つけられているのだ。…(中略)… 意味を思考することとは、ありふれたものであれ突飛なものであれ、あらゆる観念から自由になることである」(『思考とイメージ』 ブリッセル、マグリット展カタログ、1954年5月/『ルネ・マグリット展』 編集:朝日新聞社文化企画局 発行:朝日新聞社 1994 p48) これらはブルトンやツァラらの考え方とも共鳴します。こうした思考や詩の生成は、その後のアーティストたち(ハプニング・フルクサス、コンセプチュアルアートほか)にも使用され脈々と展開されています。 もちろん、マグリットが始めてこうした法則を使用したわけではありません。デ・キリコやピカソなども使用していますし、現代のトリックスターであるマウリツィオ・カテランなどもそのエッセンス(部屋の中に馬の剥製を吊り下げたり、部屋の中に太い樹木、それも根とその周辺の土までをそのまま持ちこんだり、女癖の悪いギャラリストにペニスの形状をしたウサギの着ぐるみを着させたり等など)を十二分に活用しています。
(太字は、筆者の私、トビー高橋が独自に行ったものです)
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<マグリット関連の書籍> ;
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