|
|||||||
美術家の言葉 |
|
|
|||||
|
■自身の芸術についての見解をあらわすものとして… 「芸術という語がいったい何を意味するのかとなると、私が理解するような芸術よりは、つまり、はるかに一般的なものとしての、そしてそれぞれの時代に少しも従属的ではないものとしての芸術よりは、趣味の方がはるかに大きな役割を果たしてきたのですよ。 芸術という語の定義に趣味を混ぜ合わせることは、私からすればまちがいです。芸術はある時代の趣味よりもはるかに深いものですし、ある時代の芸術はその時代の趣味ではありません。これはたいへん説明し難いことです。趣味以外のことによって何かができるとは人々は考えもしませんから。つまり、人は趣味によって生きていて、帽子を選び、タブローを選んでいるわけですから」 ※1
「100年前に、数人の画家、数人の画商、数人のコレクターがいて、それで芸術制作とは、一種秘教的活動になっていました。こうした人々、こうした数人の人たちは、一般の人たちには分らない彼らだけの言語を話してましたし、こうした言語を彼らは、こういってよければ、宗教的言語とか、あるいはたとえば法律用語として受け止めていました。それぞれの言葉は、秘教伝授された者にしか意味がなかったからです。この100年来、すべてが大衆の領域になりました。みんなが絵画について話すようになりましたから。絵画を描く人、それを売る人、それを買う人だけでなく、一般の人々までもが絵画について話しているのですよ」 「ところが、大衆は秘教伝授された者ではまったくありません。この秘教主義は、秘教主義でも一般向けの教えになったのです。今日あなた方が絵画について話したり、今日一般に芸術について話せば、一般大衆は発言を許されますし、それを言いますよ。さらに加えて、一般大衆はお金を持ってきたし、芸術での商業主義が秘教主義の問題をその一般向きのは教えにしてしまいましたよ。そうなると、芸術はインゲン豆と変わらない商品です。スパゲッティを買うように芸術を買うというわけです」 ※2 「美学的思考を、同時代の多くの画家たちが親しんでいた手の才能、手の能力といったものにではなく、精神の行為へ帰着させる」 ※10
■絵画を鑑賞する観客の存在について、観客が持つ“力”について… 「しかしですね、そうした作品をつくる芸術家は、自分が何をつくるのか知らないと思います。そのことで私が言いたいのはこうです。自分が物理的に何をつくるのかは分っていますし、その灰白質【頭脳】さえ、正常に思考しています。しかし美的結果を評価することはできません。この美的結果は二つの極を持つ現象です。 つまり第一の極は生産する芸術家で、第二の極は観客ですが、観客という語は同時代人の意味だけでなく、すべての後世の人々と芸術作品を見る人の意味で用いていまして、そのような彼らが投票によって決めるのですよ。あるものが問題の場合、それは芸術家がそれと知らずに生み出した深さを持つがゆえに[ある深遠なものがあるがゆえに]残るべき、あるいは生き残るべきだ、とね。そしてその点を私は強調します」 ※6
■絵画の価格、市場についての意見として、レディメイド制作に至ったひとつの考えとして… 「残念ながら、投機の問題なのだと思います。小麦を買う代わりに、絵画を買うのです。それは大きな利益を生まないですよ、私の意見では。人々がそれを利用したって…」「投機の宗教があるからです。もしお望みならばそれを別な仕方で呼んでも結構ですが、それでもそれは宗教です。何かを五スーで買い、翌日に10スーで売る某氏は、神を信じています。自身の投機の神を信じています。それは、一般的な商業化が明白な現在では、ひじょうに明らかなことです。金は、かつて以上に、100年前以上に、神の形をとったのです。 とりわけ、今そうです、どうしてだか分りませんが。「神」が重要でなくなったからこそ、別な神を見つけなければならなくなったのですかね、ほとんど話題に上りませんが、いつも考えているという神としての金を見つけだしたのですかね。私には分かりません。ともかく、私にとって、それは明白なのです。10分間で、ひじょうに高いものをつくれるのですから。そうなると、芸術家にとっても、買い手にとっても一種の誘惑があるわけです。それは、こうしたものを使うという誘惑です。これを使えば、一種の競争であるゆえに少しずつ発展してきたこうした投機の必要性を満足させるのを手助けしてもらえますから。何よりもまず、われわれは競争世界に生きているのです。人は隣人を殺します、生きるためには隣人を殺さなければならないのです。そうでなければ、生き延びられません。死ぬのはあなたなのです。それは選択です。到達できるところは、こうした結論なのだと思います」 ※8
■デュシャン自身が制作において、留意していたことのひとつとして… 「真面目なことはたいへん危険なことであるだけに、私はユーモアにこだわりました。真面目なことを避けるために、ユーモアを介入させなければいけません。それで、あなたがユーモアを介入させるとしますね、ところがそれでも、私が考察できそうな、あるいは考察しようとしてきた唯一真面目なことがありまして、それがエロティズムです。それは真面目ですよ、私はそれを基本方針として用いようとしました。そう言ってよければですが、たとえば、『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』のために構成したものを構築するために、です」 Alain Jouffroy, Marcel Duchamp,<Rencontre>,Centre Georges Pompidou & Dumerchez,1997,p40 ※9
|
|
<マルセル・デュシャン関連の書籍>
美術家の言葉の引用先・流用先文献 ※1 『 デュシャンとの対話』 著:ジョルジュ・シャルボニエ 北山研二訳 発行:みすず書房 1997 p7-8 ※2 同上p11-12 ※6 同上p96 ※8 同上p109-110 ※9 『デュシャンとの対話』 ジョルジュ・シャルボニエ 北山研二訳 発行:みすず書房 1997 訳者あとがき p143 ※10 ※「ポンピドー・コレクション展カタログ」 編集:発行:東京都現代美術館、朝日新聞社、テレビ朝日 1997 p86 |
|||||