Georgs Seurat


  

 ジョルジュ=ピエール・スーラ


  

  

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美術家DATA 新印象主義 目次

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ism(美術運動)の証言 目次

絵画の制作技法・構造と効果 目次

経歴

1859 フランスはパリのボンティ街に執達吏の家庭に生まれる。パリ市立デッサン学校から国立美術学校絵画科で学ぶ。

シュヴルールの「色彩の同時対照の法則」に関心を持ち研究

1879 第四回印象派展に感銘を受け、美術学校をやめることを決意。1年間の兵役

1881 ドラクロワの技術の研究に没頭。ルードの「近代色彩論」を読み、交差する大きなタッチで習作を描く

1882 自身の様式を見出す

1883 サロンに2点のデッサンを出品し、うち1点が入選。『アニエールの水浴』の習作にとりかかる

1884 『アニエールの水浴』がサロンで落選。落選の若い画家のグループ、アンデパンダン芸術家集団に加わり、同作をアンデパンダン展に出品。この作品を見たシニャックと知り合う。

同年、再組織されたアンデパンダン芸術家協会に加わる。

1885 『グランド・ジャット島の日曜日の午後』制作。デュボワ=ピレの紹介で作家のロベール・カーズのサロンの常連となり、ドガ、ピサロらと知り合う

1886 デュラン=リュエルによる印象派ニューヨーク展に『アニエールの水浴』を出品。第8回(最後の)印象派展に『グランド・ジャット島の日曜日の午後』を出品。スーラを中心とした新印象派が話題となる。

ベルギーの詩人がアトリエを訪れ、作品を購入し、翌年の「二十人展」に招待を受ける

1887 シニャックとともにブリュッセルにいき、「二十人展」に7点の作品を出品。アンデパンダン展に出品

1888 第四回アンデパンダン展に『パレード』などを出品。同展は大成功となる。アムステルダムのオランダ版画クラブ第二回展(テオ・ヴァン・ゴッホ主宰)に招待出品。新印象派の画家たちで意見の相違、対立が表面化

1889 ブリュッセルでの「二十人展」に12点出品。マドレーヌと同棲をはじめ、友人たちと疎遠に。

1890 アンデパンダン展に出品するが、冷ややかに批評されたといわれる。前衛的雑誌『現代人』に掲載されたシニャック論でスーラの名が触れられず、抗議の手紙を送る。グループ内でのわだかまりを残し、さらに孤立していく

1891 二十人展とアンデパンダン展に出品。過労から風邪をこじらせて死去

 

 

 

 

  

 

<国内で見られる主な絵画・所蔵品>

●ひろしま美術館

制作年

村へ

1883

●大原美術館

 

風景/木炭、紙

1883頃

●笠間日動美術館

 

踊る道化/コンテ、紙

1887

●メナード美術館

 

<サーカスの客寄せ>のための習作/ペン、インク、紙

1887

 

  

 

より理解のために

green07_next.gif 新印象派の「ismの証言」

 

参考文献

『新潮美術文庫32 スーラ』 執筆:乾由明 編:日本アート・センター 発行:新潮社 S49

 『スーラ』 著:乾由明 発行:新潮社 昭和49

 『点描の画家たち』 監修:国立西洋美術館 発行:朝日新聞社 1985

 「ひろしま美術館 収蔵品図録 西洋編」 発行:ひろしま美術館 1994