Emil Nolde


  

  エミール・ノルデ


  

  

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美術家DATA ドイツ表現主義 目次

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ism(美術運動)の証言 目次

絵画の制作技法・構造と効果 目次

経歴

 1867 ドイツとデンマークの国境近くのノルデ村で農場経営の家庭に生まれる。幼少時から絵を描き、画家になりたかったが、学校を卒業後、1年間両親の農場で働く。

1884 ドイツのフレンスブルクの家具工場に木彫の従弟として働く。4年間の修業

1888 ツィーグラー・ウント・ヴェバー工場で木彫師として働きながら、工芸学校で学ぶ。翌年よりベルリンのさまざまな家具工場の工房で働く

1892-1897 スイスのザンクト・ガレンの工芸博物館の講師を勤める。美術に関する見識を広めていく。その間、ミラノ、ウィーン、ミュンヘンなどに旅行。96年にはマッターホルンなどの登頂に成功

1896 二年がかりで描いた油彩画は展覧会で落選。スイスの山々を伝説などの登場人物として描いた着彩素描の「山岳絵葉書」が雑誌に掲載され好評。そこで借金をして、それらを大量に印刷して販売。わずかな期間で大金を手にし、美術教育を受けるために講師を辞める。

1898 ミュンヘン・アカデミーには入学できず、フリードリヒ・フェールの画学校で学ぶ

1900 パリに出て、ルーヴル美術館でティツィアーノ、マネ、ドガに感動する

1901 コペンハーゲンでアトリエを借りて制作。短期間、サルトマン画学校で学ぶ。作品を出品するがどれも落選。女優のアーダ・ヴィルスドルプと出会う。

1902 アーダと結婚。姓をノルデと変える。ベルリン分離派の素描・版画展に素描を出品

1904 ライプツィヒ美術協会がノルデの14点の油彩画を展示。ベルリンのシュルテ画廊、ヴァイマールで個展。

1905 資金がなくなり、一時、友人の招きで渡伊。病のアーダはスイスで療養。ノルデは帰国後、オストハウスがフォルクヴァング美術館のために作品を購入。

1906 オストハウスとともに愛好者で支持者となるシーフラーと知り合う。ベルリン分離派(ゼツェッシオーン)第11回展に「収穫の日」を出品。色彩とタッチが激しく荒れ狂う

 ドレスデンのアルノルト画廊で個展。それを見たブリュッケのグループの若い画家たちがグループに加わるよう申し出る。ブリュッケのグループ巡回展に参加。

 最初の木版画を制作

1907 ベルリン分離派展に出品。ハンブルグのコメター画廊で油彩、素描などの個展。シーフラーによるノルデに論文が雑誌『美術報』に掲載。ブリュッケのグループ展に参加。

 シーフラーの引き合わせでムンクと会う。ブリュッケを脱退

1908 作品がベルリン分離派の理事であるパウル・カッシーラの画廊で展示。分離派のメンバーに選出される

1910 ハンブルクとエッセンで大規模な個展。絵が数点売れて、経済的な困窮から脱出。

ベルリン分離派が若い画家やノルデの「聖霊降臨」を拒絶。ノルデは会長のリバーマンを公開書簡で非難。公開論争ののち、分離派から除名される

新分離派が創立され、ノルデも参加

1912 オストハウスによるフォルクヴァンク美術館での大規模展覧会。同美術館が「賢い処女と愚かな処女」を買い上げる。「青騎士」第二回展に参加

1913 ハレの美術館長ザウアーランドが市立美術館のために「最後の晩餐」を買い上げる。

帝国植民地省による学術調査団に誘われ、各地を訪問(夫人も同行)翌年にかけて、モスクワ、シベリ、日本、中国、マニラ、ニューギニアほか各地を訪問

1914 帝国植民地省がニューギニアで描いた作品50点を購入。以後水彩画が重要な手段となっていく

1915頃 花や庭をモチーフにした作品を以後、絶え間なく制作していく

1921 イギリス、パリ、スペインなどに旅行。前年には故郷が住民投票でデンマークとなり、デンマーク国籍を取得

1927 自身の設計による家「ゼービュル」を建てる。建築はその後数年続く。60歳の誕生日を期にドレスデンで最大規模の展覧会(全433点)。ハンブルク、キールほかに巡回。クレーやカンディンスキーらの友人が寄稿した記念文集出版

1932 ノルウェー美術協会による「ドイツ新美術展」でノルデ作品が中心的な位置を占める。オスロ、コペンハーゲン、ケルンほかを巡回

1933 ナチスにより作品が各美術館から押収され、「廃頽美術展」に展示される

1938−45 ナチスにより制作禁止命令がだされ、ゲシュタポが監視。身を隠すように暮らす間も小さな水彩画を描き続け、自身はその作品群を「描かれざる絵」と呼ぶ

1945 終戦後から油彩画が多数制作するが、ほとんどが「描かれざる絵」に基づくき書き写されたもの

 晩年はキール市の芸術賞、第26回ヴェネツッア・ビエンナーレの版画賞ほかの多数の受賞、勲章を受ける

1956 ゼービュルで死去。その後遺書によりノルデ財団が設立される

 

 

 

 

  

 

<国内で見られる主な絵画作品>

●池田20世紀美術館

制作年

劇場(会話)/水彩、紙

1910-11

城/水彩、紙

不詳

●愛知県美術館

 

静物L

1915

 

 ノルデの作品は、極めて大胆でかつ簡潔。激しい筆使いと単純な形態、そして色彩の相互作用が、作品に力強さを与え、そのために生命感を感じさせてくれます。モチーフと手法がかみ合っています。

 現在の視点からいってしまえば、それだけなのですが、そうした表現がなかった当時に、その画風を創りあげたことが凄いのです。

 そして、そのちょっと土臭い生命感?だからこそ、現在でも国境を越えて、どんな人もコミュニケートでき、見る者に喜びを与えてくれるのでしょう。

  

 

より理解へ

green07_next.gif エミール・ノルデの「美術家の言葉」

 <エミール・ノルデ関連の書籍

 

 参考文献

 『エミール・ノルデ展』 監修:国立西洋美術館 発行:東京新聞 1981