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哲学思想どうでしょう マンガ版 |
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はじめに……マンガは独立したストーリーですが、原典の著作内容にある程度リンクした部分があります。リンクしている部分には「※注」をつけました。注の部分につきましては(興味のある方は)右側の注欄を参照してください。 (マンガは幾つかの部分に分けて表示されるようにしてありますが、どれくらいの時間で表示されるかは皆さんがご覧になっている環境によって異なります。 ※このページはサルトルの思想を解説するものではありません。サルトルの思想に興味を持たれた方は著作の原典をお読みください マンガ/文:トビー高橋
マンガ/文:トビー高橋 サルトルの言葉 Pick Up 「実存が本質に先立つとは、この場合何を意味するのか。それは、人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義されるものだということを意味するのである。 実存主義の考える人間が定義不可能であるのは、人間は最初は何ものでもないからである。人間はあとになってはじめて人間になるのであり、人間はみずからがつくったところのものになるのである。このように人間の本性は存在しない。その本性を考える神が存在しないからである。人間は、みずからそう考えるところのものであるのみならず、みずから望むところのものであり、実存してのちにみずから考えるところのもの、実存への飛躍ののちにみずから望むところのもの、であるにすぎない。人間はみずからつくるところのもの以外の何ものでもない。以上が実存主義の第一原理なのである」 p17 <J.P.サルトル関連の書籍>
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今回、私が引用・流用した原典は 『サルトル全集 第十三巻 実存主義とは何か』 著:サルトル 翻訳:息吹武彦 発行:人文書院 改訂重版 昭和47年
※注1 「…人間は自由の刑に処せられていると表現したい」。 サルトルの実存主義のあまりにも有名な言葉。その意味とは 「刑に処せられているというのは、人間は自分自身をつくったのではないからであり、しかも一面において自由であるのは、ひとたび世界のなかに投げ出されたからには、人間は自分のなすこと一切について責任があるからである。 実存主義者は情熱の力を信用しない。美しい情熱は破壊的奔流であって、人間を宿命的にある行為へとみちびくものであり、したがって一つの逃げ口上になる、とはけっして考えない。実存主義者は、人間は自分の情熱に責任があるのだと考える」p29―30 ここでは無理やりマンガとリンクさせていますが、とにもかくにも、私たちは自由であり、ささいなことでも決定する主体は私自身の意思によるわけです。
※注2 上記の補足ともなる部分です 「感情は人のなす行為によって形成される。したがって私は感情に聞き、感情にもとづいて自分をみちびくことはできない。…(中略)……諸君はいうかも知れない。「少なくとも彼は助言を求めに先生を訪ねたではないか」と。しかし、もしたとえばあなたが司祭のところへ助言を求めにいくとすれば、あなたはその司祭を選んだのであり、司祭がどんな助言をしようとするかを、多少ともすでに心では知っていたのである。……(中略)…… もし例の青年がレジスタンス派の司祭なりまた協力派の司祭を選ぶとすれば、彼は自分のうける助言の種類をすでに決定しているのである。こうして彼は私を訪ねてきたとき、私のしようとする返事を知っていた。そして私はただ一つしかなすべき返答をもたなかった。「君は自由だ。選びたまえ。つまり創りたまえ」と。いかなる一般道徳も、何をなすべきかを指示することはできない。この世界に指標はないのである」 p36―37 今回釣りに出かけた半田巡査(警察官の設定です。よくわからない方はリオタールとリーチェの回を参照ください)は、この状況の中でも、まず娘との関係を優先的に考えた時点で、自身の選択は自ずから決定・選択されていた、というわけでもあります。
※注3 より的確にするならば注3と注4の間のことについてですが… 「それは静寂主義や不活動にみちびくような不安ではない。それは、責任を負ったことのある人ならばみんな知っている単純な不安なのである。 たとえば、一人の部隊長が攻撃の責任をとり、何人かの部下を死へと送り出す場合、彼はそうすることを選ぶのであり、しかもけっきょく自分ひとりで選ぶのである。なるほど命令はうえからくるにちがいないが、その命令は幅がひろく、したがってぜひともある一つの解釈が必要となる。この解釈は彼からでてくるものであり、十人、十四人、または二十人の生命がその解釈によって左右されるのである。彼は決定をするにあたってある種の不安をいだかずにはいられない。すべて人の長たるものはみなこの不安を体験する。 しかしそのことが、彼らの行動することを妨げはしない。それどころか、そのことが、彼らの行動の条件そのものなのである。というのは、それは彼らが二つ以上の可能性をまえにしていることを前提にしているからであり、彼らが可能性の一つを選ぶ場合、その可能性は選択されたからこそはじめて価値をもつのだということを、彼らは理解しているからである。なお、それ以外、このような不安――それが実存主義の記述する不安であるが――」p25―26 「その可能性は選択されたからこそはじめて価値をもつ」という言葉がキーワード。そしてそれは注4へ続きます。
※注4 「静寂主義とは、「私のやりたいことを他人がやりうる」ととなえる人たちの態度である。私がいま諸君に紹介している主義は静寂主義のまさに反対である。「行動のなか以外に現実はない」と明言するのであるから。もっともこの主義はさらに一歩をすすめている。「人間は彼自身の投企以外の何ものでもない。彼は自己を実現するかぎりにおいてのみ存在する。したがって彼は彼の行為の全体以外の、彼の生活以外の何ものでもないのだ」と付言するからである」p43
※注5 「実存主義者には二種類あるということである。第一のものはキリスト教信者であって、そのなかにカトリック教を信じるヤスパースや…(中略)…。第二は無神論的実存主義者で、そのなかにはハイデッカーやまたフランスの実存主義者、そして私自身をいれねばならぬ。この両者に共通なことは、「実存は本質に先立つ」と考えていることである。あるいはこれを、「主体性から出発せねばならぬ」といいかえてもよかろう。このことを正確にはどう理解すべであろうか。…(中略)……したがって、ペーパーナイフは、ある仕方で造られる物体であると同時に、一方では一定の用途をもってもいる。この物体が何に役立つかも知らずにペーパーナイフを造る人を考えることはできないのである。ゆえに、ペーパー・ナイフにかんしては、本質―-すなわちペーパー・ナイフを製造し、ペーパー・ナイフを定義うるための製法や性質の全体――は、実存に先立つといえる。つまり私のまえにある、あるペーパー・ナイフ、ある書物の存在は限定されているのである。すなわちこれは一種の技術的世界観であり、この世界観では生産が実存に先立つのだといえる」 p13―14 別に補足はいらないでしょう。半田巡査は、本質(用途)が先立つ生産物を考えて作ったわけです。
※注6 「実存主義者がいうのは、卑劣漢は自分を卑劣漢にするのであり、英雄は自分を英雄にするのだということである。卑劣漢にとっては、卑劣漢でなくなる可能性が、英雄にとっては英雄であることをやめる可能性がかならずある」p48 上記のことが、マンガで的確につながっているわけではありませんが…とりあえず、全体の補足として入れておくべきことなので…。
※注7 「また人間の悲観論的記述とも考えられない。人間の運命は人間自身のなかにある以上、これほど楽観的な主義はないからである。また人間にむかって、希望は彼の行動のなかにしかなく、人間を生かす唯一のものは行為であると説くのであるから、行動にたいして人間を絶望させるための試みと考えることもできない」p49 実存主義は悲観論的なものではないという理由のひとつです。今回参照した書籍には『実存主義はヒューマニズムである』という副題もついています。
※注8 「しかしわれわれがここに真理として到達する主体性は、厳密に個人的な主体性ではない。というのは、われわれは、コギトのなかに自分自身だけでなく他者をも発見することを証明したからである。デカルトの哲学とは反対に、またカントの哲学とは反対に、われわれは「われ考える」によって、他者の面前でわれわれ自身を捉える。そして他者はわれわれにとって、われわれ自身と同様に確実なのである。こうして、コギトによって直接におのれを捉える人間は、すべての他者をも発見する。しかも他者を自己の存在条件として発見するのである」 p51 ※注9 ここまできて、やっと美術と道徳の話です。 「このことをいっておいて、さて世の中の人たちが美術家にたいして、先験的に定められた規則にもとづかずに絵をかくといって非難したためしがあるだろうか。その画家のかくべき絵はどんな絵か、そんなことを口にしたものがかってあるだろうか。その画家は自分の絵の構成のなかに自分を投じるのであり、かくべき絵とはまさに彼がかき終わった絵であること無論である。 先験的な美的価値は存在せず、価値はあとになって、絵の一貫したまとまりのなかに見出され、創造意欲とその結果とのあいだのさまざまな関係のなかに見出されることは無論である。明日の絵画がどんなものか誰もいうことはできない。絵はできあがったあとでしか判断することはできない。そのことが道徳とどんな関係をもっているか。……(中略)…… 芸術と道徳に共通するものは、双方ともに創造と創意があるということである。このことは、私を訪ねてきた例の生徒の場合をお話したとき、十分示しておいたつまりである。この生徒はたとえカント的道徳、あるいはその他の道徳に呼びかけても、そこにどんな種類の指示も発見できなかった。彼は自分で自分の掟を創り上げねばならなかったのである。この男が感情や個人的行動や具体的慈悲を道徳の基礎にして母の膝下にとどまることを選んだにしても、無動機的な選択をしたのだとはわれわれはけっしていわない。 人間は自分をつくっていくものである。はじめからできあがっているのでなく、自分の道徳を選びながら自分をつくっていく。しかも周囲の事情の圧力が強いので、彼はある一つの道徳を選ばずにいることはできないのである。われわれはアンガジュマンとの関連においてのみ人間を定義する。それゆえ、われわれに選択の無動機性を非難するのは背理である」 p60―61
注 「実存主義とは、一貫した無神論的立場からあらゆる結果を引き出すための努力にほかならない。……(中略)……実存主義は、神が存在しないことを力のかぎり証明しようとするという意味で無神論なのではなく、むしろたとえ神が存在してもなんの変わりもないと明言する。それがわれわれの観点なのである。神が存在すると信じているのではなく、神の存在の問題が問題なのではないと考えるのである。人間は自分自身を再発見し、たとえ神の存在の有効な証明であろうとも、何ものも人間を人間自身から救うことはできないと納得しなければならない。この意味で実存主義は楽観論であり、行動の教義である」 p73―74
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