美術と近代社会史

 red05_next.gif近代日本/明治前期 

富国強兵とリアリスム  高橋由一、五姓田義松

  

  

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美術と社会史 近代日本目次

美術家DATA 目次

美術家の言葉 目次

ism(美術運動)の証言 目次

絵画の制作技法・構造と効果 目次

 


 鎖国を解いた日本は、とにかく西洋列強の“新文化”吸収に全力をあげ、皆がそれぞれの理想を説きまくっていた時代のようですが、やがて…。

社 会 動 向

 

文学の動向

 

 西洋事情に詳しいと時代の指導者にもなりえた

 明治政府の最大の力点は、西洋列強諸国の植民地とならず、不平等条約もなく、完全たる独立国家となるための強兵。当時の日本の生命線。

 江戸から東京府に

 

 文学の新しい主流はまだ発生せず。啓蒙時代、欧化主義時代ともいわれる。

 福沢諭吉は「西洋事情」など英国の功利主義、実学を奨励。西洋知識の普及に務める。

 新島襄は同志社を設立し、キリスト教主義の人格教育を行う

 

 文章を書くときの基本は“和文”。擬古文で漢文くずしのようなもの。

 中村正己は儒教とキリスト教を調和した新道徳を作る。それぞれが混在する社会。西洋新文化の吸収が最優先であるため

 

 江戸時代の戯曲の系譜をひく魯文の「西洋道中膝栗毛」など。ただし、滑稽本で世相を反映するも全てはフィクション。

 重税から農民一揆が各地で起きる

 

 

 

 

 

廃藩置県

旧大名の藩知事に代わり、中央政府任命の官僚知事が地方官に任命⇒中央集権制の確立/明治政府の本格的な始動

東京汐留鉄道蒸気車が運行(東京−横浜間)。大人気に。

従来の太陰歴、月を使った暦から西洋と同じ太陽歴に。

 徴兵制発令

 

 

 明治政府の最大でかつ唯一とでもいえる念願の富国強兵のために、四民全ての20歳になった男子を徴兵⇒農民は働き手を徴兵で3年間失い、士族は特権を失うため、一揆などの暴動が…その暴動を農民からの徴収兵が鎮圧

征韓論で政府内対立。使節から戻った大久保、木戸らは内政の充実を優先課題とし、西郷らは征韓論で下野。

廃刀令。元士族らは魂を奪われたとして政府に反発。

 明治天皇は人心掌握と現地視察を目的に、全国的な巡幸を実施(5年〜18年まで計6回)⇒鉄道機関の整備されたという要因もある。

 

 

 

第一回内国勧業博覧会開催     上野公園で102日間、機械、製造品など8万点余の出品。来場者45万人。日本の産業復興・富国への裾野を広げるため

 薩摩士族らの不満が高まり各地で反乱が起きる。九州でも不満士族や農民らが独自に過激に走り、それを押さえきれず西郷隆盛が北上開始。政府軍と激突。政府軍が勝利も多数の死傷者を出す。西南戦争

 

 新知識吸収に忙しく、文学を省みる余裕はなく、次期、発芽の土壌が作られいく。

 

 

 

 

 

  フランスの自由平等主義とドイツの国家主義思想の訳本が発行される。それぞれは調和せず、独立してある

 

 

 

 

 

 

 

 

 国会開設の勅輸が出、自由党(総理板垣退助)、立憲改進党(免官となった大隈重信、前島密ら)が結成

 

 

 

新聞も数多く発行される

 

  翻訳ものの科学小説が人気を得る。ヴェルヌの「80日間世界一周」「月世界旅行」など。

 

 

 

 新知識を欧米から輸入するのが先決であるため、この時でてきたのは自由民権運動などの政治運動の流れ生まれた、政治小説

 

 福島県令三島通庸が、土木事業(三方道路/新潟と栃木、会津若松などを結ぶ)を推進。

強引な推進に各地で反乱が起きる。しかし、鬼の県令・三島が鎮圧。

朝鮮半島で壬午の変。朝鮮の保守派が日本公使館も襲撃。清国が介入。日本は損害賠償などを得るが、清国が朝鮮半島で勢力を得、政治的影響力も失い、貿易も清国に奪われ、清国に対抗すべきとの気運が高まる

第2回内国勧業博覧会

日本銀行設立

鹿鳴館竣工。西洋列強との条約改正を有利しようと、外見を飾った。上流階級と外国人との社交場として利用

 自由党左派と農民大衆層により、各地で激化事件が頻発。政府、松方財政がインフレ経済のたてなおしでデフレ政策を行い、そのため農民層にとってはより生活を圧迫していた背景もある。政府が鎮圧。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

激化事件の頻発を憂慮した板垣退助は自由党を解散する。

激化事件の中でも最大の秩父事件が起こる。農民の蜂起。10日間の抵抗ののち、政府軍が鎮圧。

政府の政策転換。伝統工芸の育成による輸出が文化の中心施策に。

欧化主義の反動が現れる。

農務省主催第1回内国絵画共進会開催。洋式絵画の出品を拒否

独立党の朝鮮におけるクーデターが清国兵の反撃により失敗。天津条約が日清両国の間で結ばれる。

 

 二葉亭四迷がロシア小説「あさびき」(ツルゲーネフ)を翻訳

これが言文一致体の新文章の始まり。それまでの漢文などの知識階級層の言語では訳し切れなくなったという事情もある。

ただし、口語をそのまま文字にするのではなく、口語に用いられない、単語、語法を追放した文章である

 

 

「新体詩抄」発行。訳詩が中心も詩形は七五調の新体詩登場

 <参考文献>

「日本文学通史」著:次田潤 発行:明治書院 昭和11年

「明治・大正・昭和」著:中村光夫 発行:新潮選書 昭和47年

「図説 日本の歴史14 近代国家の展開」 発行:集英社 1987年

「油絵を解剖する 修復から見た日本洋画史」著:歌田眞介 発行:NHKブックス 2002年

「芸術新潮 1990年10月号 特集 美術事始め」発行:新潮社 

「芸術新潮 1994年3月号 特集 常識よ、さらば! 日本近代美術の10章」

「御即位10年記念特別展 皇居の名宝」発行:NHK 東京国立博物館での展覧会図録 1999年

「近代日本美術家列伝」編:神奈川県立近代美術館 発行:美術出版社 1999年

「日本の美 富士」発行:美術年鑑社 2000年

「開館記念 芸大美術館所蔵名品展」発行:日本経済新聞社/NHK 東京芸術大学での展覧会図録 1999年

「フォンタネージ、ラグーザと明治前期の美術」発行:東京国立近代美術館 1977

「のぞいてみよう!幕末・明治のヴァーチャル革命 日本近代洋画への道」発行:埼玉県立近代美術館 2002

 

  

 


  西洋的表現や写真から「横浜絵」「写真油絵」、そして本格的油彩画が学ばれるが、やがて…。

年代

油彩画の動向

明治前

西洋画のような遠近法や写実性を取り入れて描いた絵を「洋風画」と呼ぶ。

既に下岡蓮杖が横浜に写真場を持つ。日本の職業写真家1号とも言われる。当時の写真はモノクロのため、そこに着色・彩色を施す方法を取り入れる。

横山松三郎が教えを受け、後に写真館を開く

明治元年〜

 1868〜

 

 

 浮世絵や狩野派にも学んでいた五姓田芳柳は西洋画に感動し、絹地に日本絵の具と泥絵の具で描く洋風画“横浜絵”を開拓。また同年、画塾を開く。

五姓田芳柳伝とされる横浜絵は、日本の着物・正装姿で刀、扇子などの小道具を持たせた外国人肖像画であり、外国人の土産物としても人気を博す。

 しかし、その小道具類ではなく、写実性はそれまでの洋風画を描いていたどの画家も遠く及ばないほどの写実性を持つ。また細部の衣裳には、絵の具を固めて立体感を出すなどの、まさに細密さがある。

 

5年

1872

 明治前よりワーグマンに教えを受けていた高橋由一は<花魁図>を描く。花魁という職業の外見をうつしとる。

僧侶であり仏画を学んでいた田村宗立は、写真やからくり眼鏡から、陰のある絵画を独自に描く。また、この年ワーグマンを尋ね、高橋由一らを知る。

6年

1873

 高橋由一、画塾を開く

7年

1874

 

五姓田芳柳は息子・義松とともに「西洋画工」と自らを名乗り、油絵興行を行う。ただし、泥絵の具の上にニスをひいたものである⇒写実性は非常に富む。

8年

1875

五姓田義松、若干20歳にて自分の画塾を開く。

9年

1876

工部美術学校開校。中年不惑の高橋由一と若き天才・五姓田義松、出会う。

10年

1877

博覧会で義松第一等、油一は花紋賞。五姓田義松は、工部美術学校退学。

高橋由一は、自分の画塾で月に一度展覧会を開き、街の人々に油彩画を公開。部屋を暗くして作品にスポットを当てて展示する。しかし、人々にとっては「本物のようだ」「まるで生きているようだ」という見世物的意識が大半。著名な<鮭>等も描かれる。

 11年

1878

 明治天皇の第3回目の巡幸(北陸・東海道方面)の御付画家として五姓田義松が随行。50点ほどの記録画題を描く。

<北陸・東海道御巡幸記録画連作>は、非常に完成された構図。比較的高い視点からの眺望、または前景の視点から遠景を眺望する視点で構成。比較的に明るい色が使われた穏やかな色調で安定して落ち着いた画面。また画面上、空が大きな割合でとられ、雲の姿や光の加減から季節や時刻を推測できる。五姓田義松の技量の確かさを堪能できる作品群。

 

 

M13年

1880

 横山松三郎、写真に着色する新しい技術の写真油絵を完成。写真に手彩色するよりは、より微妙で繊細な色使いがあるが大きく異なる印象は受けない。ただし、写真自体は大判が可能になってきている。また、写真と油絵に張り込んだミクストメディアも

五姓田義松、資金援助を得て、野望を持ち渡仏。

油絵、水彩画を教える京都府画学校創立。翌年、田村宗立が教員に。

 M14

1881

 

高橋由一は、山形県令・三島の委嘱で、山形、福島、栃木県などの新道建築事業を描く

最も困難な土木事業であった山形県と福島県境の栗子山工事、完成後を描いた<栗子山隧道図>は、栗子山の人を寄せ付けないような険しさや岩盤の固ささえも感じさせ、事業の困難さと偉大さを示唆する。また、<山形市街図>は、新しい県庁建築物への大通りを不自然なほどの高い視点(映画でのクレーン・アップしたような)で描いた一点遠近法で浮遊感がある。こちらは全ての人が奥の新建築物に向かって歩いているということで、その建築物の地域の位置を示唆する。

 M15

1882

 

洋画(油彩画)の冬の時代に…。自由民権運動は、対外硬も運動の趣旨のひとつであり、また、政府の欧化主義、国内の経済の苦しさから、伝統の見直しなどか図られる

 

 M16年

1883

 工部美術学校、廃校

フランスでは、五姓田義松が遂に日本人初のサロン入選の快挙! 大型作品の<人形の着物>は、下着だけの人形、それをもつ女の子、人形の洋服を裁縫する老女の描きわけのスーパー・リアリズムと明暗法の技術は驚嘆すべきもの。16年で日本の油彩画は西洋洋画に肩を並べたともいえる。ただし、登場人物の生気は感じられない。

 M17年

1884

 

高橋由一の画塾、閉鎖となる。

 

 

 

この時代の渡仏画家

M 3   

M7

M11

川村清雄はアメリカ、フランス、イタリアへ⇒M14 帰国

百武兼行はイギリスへ⇒M12 帰国

山本芳翠がフランスへ(用務の随行)