絵画の制作技法・構造と効果 red05_next.gif エドヴァルト・ムンクの死と生の情動を生み出す様式 前編:制作法とフォルム・色彩


  

  

トップページ/ピースフルアートランドびそう

美術家DATA 分離派 目次

美術家の言葉 目次

ism(美術運動)の証言 目次

絵画の制作技法・構造と効果 目次

 

実存主義とともに…

 「彼のすべての絵に燃え上がる生命のひらめきのあることを、われわれは感じとり、魅惑されるのである。(中略) 彼の作品の中に、われわれはともすれば恐怖に満ちた幻想を見るが、それは、常に苦悩に溢れているものである」

 これは、『ラ・プレス』誌に掲載されたエドワール・ジェラールのムンク作品に関する批評。彼はこう続けています。

 「ムンクが自己の内面から創造した奇妙な顔つきをした暗い影をもつ人物は、彼の魂の悲しみの子なのであり、けっして外面的なモデルとしてコピーされたものではない。われわれは、そのことに感銘を受けるのだ。(中略)エドヴァルト・ムンクは現代人であり、それゆえ彼の精神活動は緊張度が高く、動揺も大きい。(中略)彼は感傷的では全くない。むしろメーテルリンクの戯曲、あるいはその他の作品のように、ムンクの場合も魂そのものが絵画を手段として啓示されるのであり、魂の奥底の秘密が暴露されるのである」 (稲富正彦:訳『評伝エドヴァルト・ムンク』 発行:筑摩書房 1974) 三木宮彦 『ムンクの時代』 発行:東海大学出版会 1992 p162三木宮彦 『ムンクの時代』 発行:東海大学出版会 1992 p161に流用

 ムンク作品が評価されるのは、恐怖に満ちた世界の中に見つけることができる?生命のキラメキがあるから。ムンクのもっとも知られている作品《叫び》には、「恐怖と狂気は感じられても、生命のキラメキなど見つけられない」という人もいるかもしれません。

 確かに、作品の画面の中に、生命のキラメキを見つけるのは難しいかもしれません。実際、私も《叫び》の画面の中にキラメキを見出すことはできません。しかし、その作品を見た後には見つけられます。いや、見い出すというのが正確な言い方でしょう。

 実存主義者の哲学者ハイデカーやサルトルなどの思想の根本(乱暴ですが)は、このムンク作品が現わすものと類似しています。サルトルなどの思想のエキスは以下のようなものです。

 これを書いている私も、これを今読んでいる貴方も、何時かはわかりませんが確実に死ぬのです。死ぬということを思い知ることによって(自分も死ぬという事実を実感することによって)、今生きているという事実をより実感できる。死を見つめることによって、いま私たちがここに存在していること、生の素晴らしさを、よりいきいきと感じることができる、というわけです。

 死というものは、通常、日常の中に隠れて見えにくいものですが、それは生と隣り合わせに確実にある。そんな事実は、当たり前すぎてわかっているから、逆に死も生も感じにくくなっている。ムンク作品は、そうした感じにくくなっているものを引っ張りだしてくるからこそ、私は偉大で、魅了されるのだと思います。

 まぁ、近年では、現代美術家のデミアン・ハーストが、鮫を輪切りに切断したり、牛の親子を真っ二つに切り裂いてホルマリン衝けにした作品が話題となり一躍ヒーローになりましたが、これもこうした実存主義的哲学を誰にでもわかりやすく具現化したもの、というのが私の見解です。

 さて、前置きが長くなってしまいました。今回は、ムンク作品によく評される「死と生」の効果を、どのような手法で成り立たたせているのかを解析していきたいと思います。

 

ひとつの異様さは、単なる異様さでしかない

 まずは、ムンクにおける技法の概略的な遍歴から。

 「ムンクはまず、印象主義と点描主義の洗礼を受けたが、1889年から1892年にかけての2回目のパリ滞在中に象徴主義や総合主義と関わるようになってすぐ、リズミカルな表現と非常に様式化された作風へと展開した。(中略) この時期以降の作品は、強烈な色彩と流れるようなタッチに特徴付けられる。それらは、アール・ヌーヴォーの渦巻く曲線と共に、非常に個人的で感情的な世界観を創出している」 (作品解説:トシュテン・グンナション 『スカンディナビア風景画展』 監修:トシュテン・グンナション、ミカエル・アールンド 発行:読売新聞社、美術館連絡協議会 2002 p111)

  そして、真っ先に眼につくのが、その人体表現の異様さ。次のようなことでしょう。

 それにしても、『カール・ヨハン通りの夕暮れ』にしろ『不安』にしろ、画中の人の一様な無表情さは異常である。めいめい符号としての顔の造作は備えているのだが、抑揚のない目鼻立ちが皆同じというのは気味が悪い」(三木宮彦 『ムンクの時代』 発行:東海大学出版会 1992 p26)

 ただし、このような人体表現については、あなたが作品の図録を見れば気づくとおりのこと。まず、前提として、こうした人物の顔の異様な描き方があることだけを示すだけで、この後、このことには触れないことにします。異様な人物の顔を描いたからといって、それはあくまでも“異様”でしかありえません。

 その“異様さ”を「死と生命のキラメキ」に昇華させるのは、他の手法であるからです。

 

ムンク作品の特徴とムンクの思考

 「一般的にムンクは、19世紀までの常識だった、カンヴァスのていねいな下塗りはしない。『思春期』も、下の隅の方にはカンヴァスの布地がそのまま露出している部分があるし、後年の例では、まるで効果を狙ったかのように、画面の中央部にさえ下塗りを省いている場合がある」 三木宮彦 『ムンクの時代』 発行:東海大学出版会 1992 p15

 下塗りをしないことは何を意味しているでしょうか? この問題は一時、棚上げしておき、次にムンク作品の手法や特徴について、論じられている批評を幾つか見てみましょう。

 「黒い海岸線がうねって地平線へと延びていき、地平線に広がる深緑の森と一つとなるが、これに帯びのように長い薄雲が共鳴してうねり、全体に暗うつな調べが流れる。フランス象徴主義の音楽的な思考はボードレールの詩に見られるように憂うつと官能といった魂の内奥へと分け入るが、そこに現れるのは波うつ黒髪の大海といった神秘的なイメージである。(中略) 《メランコリー》にもそうした音楽的思考の神秘がある」  (浅川泰 「ムンク――風景のメランコリー  『スカンディナビア風景画展』 監修:トシュテン・グンナション、ミカエル・アールンド 発行:読売新聞社、美術館連絡協議会 2002 p114)

 ここでとりあげられているのは、ムンク特有のあの“ぐにゃぐにゃ”と、うねって描かれた曲線のこと。あの曲線が絵画上の反復や協調による、リズムとしてとらえられているわけです。

 浅川泰 氏は自身の批評のなかで、ムンクの次の言葉を引用しています。

 「精神状態が昂ぶっている場合には、風景が、人間に特殊な印象を与えることがある。この風景を描き出すことによって、自分自身の情感をあらわす絵画に到達する。この情感こそが、われわれの眼目するところである」 (浅川泰 「ムンク――風景のメランコリー  『スカンディナビア風景画展』 監修:トシュテン・グンナション、ミカエル・アールンド 発行:読売新聞社、美術館連絡協議会 2002 p114)

 また、次のようなことも特徴としてあげられます。

 「外面的には、ゴーギャンなどナヴィ派に見られる形態の単純化と色彩の立体感無視である。しかし、ムンクにはさらに、形と色の両面における強烈なデフォルメがあり、これが彼をナヴィはからも分かつポイントになっている」 三木宮彦 『ムンクの時代』 発行:東海大学出版会 1992 p117

 ここでいわれるのは、色彩と形態・色面のデフォルメ。色彩については、次のような特徴が述べられます。

 「他の部分では大胆で単純化され力強くて素早い、暖色と寒色の対比が作り出す色彩の激しい対照による生気あふれるタッチなど」 ※『19世紀の夢と現実 オルセー美術館展1999』 編集:高橋明也 作品解説:眞鍋千絵 発行:日本経済新聞社 1999 p184

 そして、デフォルメされた形態や色面については、太田省吾氏がこう語っているので引用します。

 「『生命のダンス』で代表されるあの曲面によってわれわれが刺激されるのは、触覚である。もちろん、眼を通して見るわけではあるが、陰が体積をもったようなあのかたちは、溶けそうであるとも見えるが、そこで固定したとも見え、やわらかいとも思えるが、図太い重さをもったものとも思えるようにして触覚にまとわりついてくるのである。 (中略)

 触覚とは、手をのばして感じる外向きの感覚であると同時に、その感覚を内面で反芻することを強いる内向きの感覚でもあるのであり、とすれば、<気分>とは、世界への触覚な感受性であると考えてよいのではないだろうか。

 …あのムンクの曲面は、その淀んで動きの鈍いもののかたちであり、そして最終的なかたちであると思えるのである。つまり、ムンクは、触覚で視覚の領域の仕事をして生きた画家であり、そのことがわれわれを奇妙に刺激する独特な画家である理由であると」 (太田省吾 「触覚と必要の画家」 『美術手帖1981年10月号 特集 ムンク』 発行:美術出版社 p101)

 

 これらのデフォルメはどうして用いられたのでしょう。それに答えるのは、次のムンク自身の言葉でしょう

 「例えば、鼻が二つ見えたら鼻を二つ描くべきである。盃がいびつに見えたら、それはいびつに描けばよい。あるいは、発情して体が燃え上がるような官能的な瞬間に感じたものを何か描くとする。

 その時、人はこのような瞬間にある題材を見つけたのであって、後で冷静になってからそれを観察しつつ描くということはできない。人が興奮した時に見た最初の映像と冷静な時に見るものとは、おのずから異なるのが当然である。

 後にも先にも、これだけが美術にとって深奥な意義をもたらすものである。われわれが描き出すのは人間であり、生命であって、死んだ自然ではないのだ」(稲富訳) 三木宮彦 『ムンクの時代』 発行:東海大学出版会 1992 p123

 

ムンクの制作法

 そして、ムンクのこうしたのもととなる制作法は、やはりムンク自身が語っています。

 「わたしは、ただ憶えていることだけを、何のつけたしもせずに描いた。わたしには、もう見えないようになっていた細部はつけ加えなかった

 作品が、簡素な印象を与え、一見、空虚に見えるのは、このためである。わたしは幼年時代の印象、そのころの、色褪せた色彩を描いた。わたしが感情のたかぶった雰囲気の中で見たそれらの色彩や線や形を描くことによって、蓄音機のように、感動的な雰囲気を再び響き出させようとしたのである。このようにして生命のフリーズの作品が出現したのだ」 アルネ・エッグム 「エドワルド・ムンク−−モティーフのあらたな定義」『ムンク版画展』 発行:日本経済新聞社 1977

 「私はヴィジョンを少し離して、思い出が印象を一点に集中できるぐらいのところまでつかんだとき、はじめて仕事を仕上げることができる――自然に直面すると私はちょっと混乱する」(太田省吾 「触覚と必要の画家」 『美術手帖1981年10月号 特集 ムンク』 発行:美術出版社 p92)

 モデルを目の前にした写実ではなく、記憶をもとに、感覚の印象がひとつの意味を獲得しうるようになるまで待って(純化され)作品を描いたというわけです。

 さて、これでムンクの手法は出揃った! という訳ではないと私は感じます。ここまでてとりあげてきたことは、ムンク作品の魅力のそれぞれの構成要素であることは間違いありません。でも、もう一度、思い出してください。これまでに取り上げてきたことは、デフォルメされた人物の形態表現、デフォルメされた形態と面、それらを支える寒色と暖色の対比というデフォルメされた色彩表現、リズム感。

 リズム感を除けば、不協和音を導きだすものばかりです。不協和音ばかりで構成すれば、確かに“気味の悪さ”や“恐怖、異様”な効果を生み出すでしょう。しかし、反対に不協和音同士が自身を主張すればするほど互いの効果を打ち消す場合も多いのはご存知のとおりでしょう。

 作品として成立するために、ムンクはこの不協和音を統合したはずだと思い、過去の展覧会図録や書籍の図版を何度となく見つめ返しました。そして、キーワードとなったのは、ムンクが自身の作品について幾度となく用いた言葉 “情動”。

 その統合ともうひとつの効果を生み出す手法につきましては、長くなったので次回(来週)の後編で紹介することとします。

 

 (文中の太字は筆者の私、トビー高橋の独自の判断によって行ったものです)

 


 

 

  

 

 

 

 green07_next.gif ムンクの「美術家DATA」

 green07_next.gif ムンクの「美術家の言葉」

 ムンク関連の書籍