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絵画の制作技法・構造と効果 |
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静物画という古典的?なジャンルの中で捉えられることの多いモランディ。しかし、その作品は、抽象的とも、瞑想を誘うとも言われ、また神秘的とも評されます。 もちろん、未来派や形而上絵画という時代の先端・前衛を身をもって通り抜けていったモランディであるからこそ、その作品が静物画という枠内に収ろうとするはずもない。 そこで今回は、モランディ作品の空間の創り方や構造をひとつひとつ拾い出すことによって、その作品の効果や意図を見つけ出していくことにします。 (なお、対象とする作品は形而上絵画以降で、かつ花や風景などを用いないものとします)
■何故、瓶や水差しなどが用いられるのか? モランディ作品の中で、繰り返し用いられるのは、瓶や水差しなどの陶器類。それが故に、「静物画」というジャンルに一般的にカテゴライズされる訳です。 でも、それらがモランディにとって、文字通り「静物の陶器」であるかどうかは別問題です。こうした陶器類(なかには他のものもありますが)が何を示すのか? についての答えは、モランディ自身が明確に語っています。 「ガリレオは、本物の哲学書、自然の書は、私たちのアルファベットに属さない文字で書かれていることを覚えていました。その文字とは、三角、四角、円、球、角錐、その他幾何学的な形をしています。 このガリレオの思考は、形相の世界である四角の世界に喚起される感情やイメージは、表現することが困難である、あるいは、言葉で表現しがたいという私の昔からの確信のなかで息づくのを感じます。実際、それらは、日常的な愛情や利害とまったく関係がないか、あるとしても非常に間接的なもので、まさにフォルムや色彩、空間や光で定義されるものです」 (「ジョルジョ・モランディ 花と風景」展 東京都庭園美術館と光と緑の美術館巡回 1998 より) モランディにとって、さまざまな形の瓶や水差しなどは、角錐、四角、円などの幾何学的図形であり、それは自然や自身の哲学の現れとしての一部、暗喩を表現する道具として使用されているわけです。 もうこれだけを見ても、モランディは古典的ジャンルの静物画を描く気持ち、意志がないことがわかります。
■色相と壁面・テーブル・陶器類の関係、マチエールが意味するもの 次にモランディ作品で特徴的なことといえば、ひとつの作品内で、色相が極めて限定され、かつトーンの幅も狭いこと。これについては、当コーナーのポロック編のように、作品ごとに、ひとつひとつ取り上げなくとも、モランディの作品を見たことのある人にとっては異存のないことと思いますので省略します。 それよりも色彩について取り上げるべきことは、陶器類(物)と、その置かれるテーブル(床面)、そして背後にある壁面との関係でしょう。 その関係を大別すれば以下のようになります。
1)壁面(背面)とテーブル(床面)がほぼ同じ色彩の場合、2)壁面(背面)とテーブル(床面)が違う色相の場合 1)の場合には、複数の陶器類の中で明らかに色相の違うものが使用される 2)の場合には、背面、および床面とほぼ同じ色彩が、複数の陶器類の中に再度現れる(使用される) 以上の関係と色相・トーンの使用法から、何が求められるでしょうか? いや、その前にもうひとつ、取り上げておくべきものがあります。それがマチエール(タッチ)。 マチエールは作品や制作年代によって大きな差がありますが、それでも一つの作品内においては、そそのタッチはほぼ統一されています。 絵具を厚く盛った堅牢な陶器類(陶器の物質感や量感がはっきりとわかる)を描いた場合には、壁面やテーブルもやはり堅牢なマチエールをもちます。また、陶器類が物質感を感じさせないような場合には、テーブルや壁面もやはりぼんやりとしています。 つまり、同一作品内では、陶器類と壁面、テーブル(床面)は、ほぼ同じタッチで描かれます。さて、ここで先ほどの質問に戻ります。これらの関係から導き出せるものとは? これらの関係が機能する効果といえば、壁面、テーブル、陶器類がそれぞれ固有の色を持って自立するのではなく、それぞれの空間を曖昧にする、ということでしょう。それは、ある側面でミニマリスムの概念でもある、地に対する図という構造をできる限り消し去るという行為でもあります。 そして、色相の狭さやトーンの狭さから、もうひとつの美術運動の技法も思い浮かびませんか? たとえば、茶色やモスグリーンが中心といえば……ピカソとブラックのキュビスム(分析的時代)。 キュビスムは色相とトーン、タッチを限定することによって、視覚をその運動の主眼であるフォルムに集中させた。モランディの場合には…もちろん、同様の効果を考慮に入れていたのは間違いないでしょう。なにしろ、未来派、形而上絵画という前衛芸術を通り抜けてきた人物であり(キュビスムは未来派と同時代)、そしてなにしろ、最初にあげたモランディの言葉をもう一度、読み返してください。モランディが理想としていたものが、その形態の中にあるのですから。
■モランディの配置、空間の作りかた モランディの作品の中で、陶器類はほとんど複数用いられます。ある意味、複数用いることをしなければモランディの作品は完結しえません。 ひとつひとつ見ていきましょう。 モランディは、類似していても全く同じ形態は避けた陶器類を複数使用します。四角形の物体の隣りに三角柱の物体を配置し、それを描いたらどうなるか? もうおわかりのとおり、そこにはわすがであっても、奥行きという空間が生じます。その奥に、物体を配置したら…。何が言いたいのかといえば、線遠近法が生じるということです。 といっても、遠近感を出すことに主眼があるとは思えません。地と図という関係を打ち消すような構造を作りながら、何故ここで遠近感、空間創出が必要なのか? しかし、モランディは必要とした。作品の中には、陶器類の陰さえ書き込んでいるのですから。 モランディにとっては、“物がそこにある”ということ、“存在”が重要であった。同時にそうした現象からの“認識”も。これはモランディ作品の解読の要素ではありますが、ここを今すぐ突っ込んでいくと混乱が生じるので、とりあえず棚上げして後に回帰します。 次は、配置の仕方。物たちは集積して配置されます。大抵は中央に、ラッシュ時の山の手線の車内の如く集められ、その廻りにはぽっかりとした空間が残されます。今回は皆さんを質問責めです。さて、どうしてこんな集積をするのでしょう?
貴方は、自分の部屋のテーブルや棚の上で、モランディのように物を配置するでしょうか? 私は絶対にこのようには配置しません……というよりも、私もデスクの横の棚の上に多くのものを乗せていますが、このように配置していません。 日常生活上ありえない配置を行うことは、日常空間とは異なった空間を創るということ。つまり、瓶や水差しなどは、瓶という日常の意味を奪い取られ、瓶自体の“純粋なフォルム”としてそこにある、ということになります。さらに言ってしまえば、その瓶のフォルムは、他のもののフォルムの後ろなどに置かれることによって、さらに違うフォルム(一部分のフォルム)や前のフォルムと結合?再構成されてしまうわけです。ここに日常性が剥ぎ取られる(非日常的な空間)が創出されます。 また、用いられる物(陶器類等)は、少しずつフォルムが異なります。たとえば瓶。瓶がひとつだけ描かれていたならば、私たちは瓶がひとつある、という認識に留まるでしょう。しかし、その隣りにもう一つの瓶が置かれたとしたら…。
こちらの瓶は、もうひとつの瓶より少しだけ高さが低い、でも口の部分は少し広い、こちらの瓶は胴回りが瓜状に湾曲している……などとその違いについて眼がいくはずです。一つしかなかったならば、とてもそんなことまで気にしなかったことまで……。 対比によって個の特性が浮かび上がってきます。まるで、私たち個人が、グループの中や社会の中に放り込まれる(もしくは飛び込む)ことによって、周りからその個性を認識されるように……自分では気付かなかった個性を発見するかのように。 これは、モランディ作品の一つの意味の見方の見解となりますが、そうした他との現実的な関係の発生をモランディは、ある局面(時代)の作品の中には込めていたのでしょう。その話を突っ込んでいけば、思想的な話にまで及んでしまいますので、ここでは踏み込みませんが、少し前に棚上げしていた、ここに“ある”という実存と現象の認識を表現した所以は、このためにでしか私にはちょっと想定できません 話が構造から離れましたので戻ります。日常性を拒否するように配置された陶器類は、純粋なフォルムに変容されたわけです。もう瓶は、私たちが瓶に似ていると認識する形としてそこにあります。記号といってしまってもいいかもしれません。 そこに残されるのは、形態のリズム感だけです。しかし、そこには、個々の配置の秩序によって再度変容するフォルムをも発見することになるのです。これがモランディ作品にとって、最も価値ある創造だと私などは思ってしまいます。 同じ配列でありながらも、視点の向きに合わせて横に並べた場合、縦(奥)へ並べた場合、語弊のある言い方かもしれませんが、ある方向から強い光線をあてた場合、薄暗い光線の中で見た場合…そのフォルムは別のフォルムへと変容する。 また、その描き方(視点の位置)も、高さはほぼ統一でありながらも、極めて接近した場合、フォルム全体の量感の中心をキャンバスの中心から若干ずらしたり、空間内の左右の比重を不均衡にさせるなどなども試みています。
■変容のモデル これらが意味するものは、再度繰り返しになってしまいますが、私たちが現在生きている生活における、さまざまな局面の一場面を見ているかのようだ、といえなくもありません。また同じ本を読んでも、その時期が異なると違う感想を得るかのようなものたどもいえるかもしれません。そして、それは煮詰まっていた時に考え方(思考)を転換することによって打開策が見出されいくことと似ているかもしれません。また、自分では何気ないと感じていたことがある人にとっては非常に役立つことであったという、他との関係による変容であるかもしれません。 そして、こうした関係からの変容のモデルは、個から周囲(社会)の枠内にとどまるものではなく、自然へ、世界へと延長していくことも可能なスケールをも持ちえるのです。 だからこそ、モランディの作品は、ある人から言わせれば神秘的であったり、瞑想を誘うものであったり、抽象的であったりするわけです。 モランディはこうも言っています。 「絵画において重要かつ価値のあるものは視えるものの独特な方向であり他の何ものでもない」(「ジョルジョ・モランディ 花と風景」展 東京都庭園美術館と光と緑の美術館巡回 1998) そして、変わらないと思えるものや貴方も、ある秩序によって、他者との関係によって、常に変容し続けていくのです。そして、私たちもモランディのように、自分の思考や生き方を変えるという決意と行動という配置によって、自分を、自分の世界を変容し創造していくことが可能だ、と私個人は考えています。
(文中の太字は筆者の私、トビー高橋の独自の判断によって行ったものです)
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