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絵画の制作技法・構造と効果 |
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| ミレーといえば、バルビゾン派の中でというよりも、ゴッホ、ピカソなどと並んで日本で最も愛されている美術家の一人といえるでしょう。 昨年の企画展「ミレーの三大名画展」も、物凄い入場者を記録したようで…(私なんかは入場するのにえらく待たされて、それだけで気力が萎えました。並ぶのが嫌いな私としては、通常ならば入場をパスするところですが、さすがにその時ばかりは我慢しました。とはいっても、ミレーとミレイ(ラファエル前派)の作品以外は、あまりの人の多さにスルーパスして出てきましたが…) では、ミレーの作品の魅力とは何でしょう? ミレーといえば一般的に「農民画」と称されることが多く、また純粋な労働の姿を描いたということで、今や死語にもなりつつある「労働の美徳」というモチーフからの支持が高いのは確かでしょう。それにやはり日本も数十年前までは農業国であり、そうした時代を知る人たちにとっては自身の幼少期、青年期の郷愁を誘うものであったり、現在そうした第一次産業に携わる方たちにとっても、自身の厳しい労働の先にある理想化された姿を見たり、心情を投影するのに適したもののひとつであるのは間違いないでしょう。 でも、第一次産業(農業・家畜経営など)の労働する姿をモチーフにすれば、それだけ支持されるのでしょうか? 郷愁を誘ったり、心情を投影できるんでしょうか? そんなことはありはしません。 ではどうしてなのか? ミレーの作品のなかに何が隠れているのか? その一端を探ることをテーマに今回は進めていきます。
■ミレーが、あえて立つ場所(ポジショニング) さて、ミレー作品の中で評価が高く著名な作品をあげるとすれば、《種をまく人》《晩鐘》《落ち穂拾い》《羊飼いの少女》《春》といったところが出てきます。まぁ、実際の作品はともかくとして、誰でも一度は図版で見たことがあるものだと思います。 この中で《落ち穂拾い》を除外したものには、ひとつの共通点が見つけられます。それは何か? もう、今回のタイトルにもなっているのでわかっている方も多いと思いますが、それはミレーは太陽に向かって(時には斜めに構えて)作品を描く位置に立つ、ということです。 これは構図というよりも作品を描く際のポジション。わかりやすく言うならば、逆光で作品を描くということです。しかし、逆光という言い方に限定するのは正確ではありません。半逆光と逆光との双方がありますから。 写真を撮影する方ならすぐにわかるでしょう。まぁ、現在は携帯電話にデジカメが着いている時代で自分を撮影することが多いですが、その時はちょっと逆になるかもしれません。自分は光源の方向を向いて、腕を伸ばして反対側から携帯のカメラのシャッターをきる訳ですから。 では、逆光と半逆光とはどう違うかといえば、それもポジションによる違いです。 Aが逆光のポジション、Bが半逆光のポジション。 では、ミレーの他の作品はどうなのかといえば…。逆光、半逆光の作品を、私が持っているカタログ図版からざっと数えあげてみると… 《耕作(鋤く人)》(1847-50)半逆光、《洗濯女》(1855)半逆光、《1日の仕事を終えて》(1863)逆光、《馬の水飲み、夕暮れ》(1866)逆光、《がちょう番の少女》(1868)半逆光、《夕映えの中の羊飼いの女と羊》(1868-70)逆光、《畑からの帰り》(1873)逆光などがあります。 結構数が多い、ということはミレーは明らかにそうしたポジションに立つことを選択した、ということでもあります。 ミレーは夕暮れ時が好きだった…ということはいえるでしょう。しかし、それならば夕暮れの風景画を描いてもいいはずです。しかし、そうはしなかった。ミレーは夕暮れに、それ自体の色彩やそこからかもし出される抽象的な雰囲気を見ていたわけではない。では、何をそこで見ていたのか? ミレーの他の作品の多くも、半逆光とまではいかなくとも、ほぼ真横の上方からの光源を受ける人物を描けるポジションに立つ作品も数多くあるのです。 ほぼ真横からの光を受けた作品は、《樽のたが締め》(室内で樽の縄をきれいに並ぶように打ち付けている人物が、きっと出口らしきところから差し込んでくる光を背中に受けている)、《編物のお稽古》(窓から差し込んでくる光を真横に受けた、編物を子供に教える母)、《馬鈴薯植え》(微妙な光線の当たり方ですが、こちらを向いている女性の全面は影となり、そして影は水平線上に左右に伸びています)、《生まれたての子羊》(太陽の位置は検討がつきませんが、うっそうとした森の小道の入り口で、真左のひらけた空間から差しこむ光、人物の影は真右に長く流れています)、《薪を伐る男(樵)》など。 そして、版画作品の《仕事にでかける人》は、もちろん朝でありますが、仕事にでかける農夫婦は光に背を向けていますし、《耕す人》は昼間から夕暮れまでの高い位置に太陽があるとはいっても、やはり太陽に背を向けています。(もちろん、その影は水平線と平行にできています)。 どうして彼らは太陽の光に向かって仕事場へ向かったり、作業をしないのでしょう? そうした位置関係で仕事をしないということはありえません。ミレーがそういう位置関係で仕事をする人々を選択して描いたからです。 本当か?と思う方もいらっしゃるでしょう。ミレーは、はっきりとそうした意図を語ったという史実はありません。しかし、そう推測させる証言をミレー自身は残しています(後ほど紹介します)。 では、どうしてそうしたポジションをとったか(もう、それは既にミレーの個性のひとつとなっていますが)は、そのポジションでの効果を狙った、その効果が自分の表現に適している、ということしかありません。
■逆光などの効果 では、その効果について見ていきますか。どうして先ほど逆光と半逆光をわざわざ区別したかといえば、それはそれぞれで効果が異なるからです。 逆光の場合……輪郭線にハイライトが生じます。ラインライト効果などといわれているものです。そして対象物は大抵シルエットとしての全体のフォルムが強調されることになります。 半逆光の場合…光源があたっている部分とあたっていない部分に分かれ、立体感が強調されることになります。真横からの光源の場合も似たような効果が生じてきます。 また、逆光、半逆光の場合には、光を完全に遮断しないものの場合には透過色というものが生じて、順光で認識していたものより明るく鮮やかな色彩が生じたりします。 また、これは言わずもがなのことですが、逆光、半逆光で人物を見れば、人物は自分の身体で光を遮断しますから、顔やこちらに向いている体の大部分は影となり暗く沈んだものになります。誰もが逆光で写真をとって、人物などの顔が黒く潰れてしまった経験はお持ちでしょう。ですから、カメラの場合には露出を絞ったり、ストロボを焚いて、こちら側に向いている部分にさらに光源を足してあげたりするわけです。
▲@ ▲A ▲B (撮影環境が劣悪なので、あまり参考にならないとは思いますが、とりあえず参考図版を。背景はミレー作品で中心に使用される系統色を置いてみました) @は高い位置のほぼ頭上(若干前方)からの光源の場合 @は、この人形のおでこがでっぱっているので、顔に影ができてしまいましたが。 Aは夕陽を正面から受けた人物を順光のポジションで見た時のイメージ。光源は低い位置から当てています。顔には影がなくなり、表情なども読み取れる感じ? しかし、その分、全体的に平坦な感じにもなります。 Bは夕陽を背に受けた人物を逆光(正確には逆光に近い)のポジションで見た時のイメージ。向かって右側の腕や下半身の輪郭に逆光時のラインライト効果が出ています。@やAと比較すると、全体のフォルムが際立ってきます。 まぁ、これらは簡単な区分けなので、さらに詳しく知りたい方は、写真撮影に関する技術書などを読んでみてください。 これで、ミレーの効果のひとつが出たことになります。さて、これがどう画面で現わされているかは、ここではいったん置いておき、次のミレー作品の特徴に移ります。
■人物を仰ぎ見る、遠近法を省略すること ミレー作品の次の特徴は、水平線が比較的高い位置に設定されているものが多いこと。水平線ということになると、当コーナーでも既に幾度が触れた視高の問題をだすのが通常ですが、今回は違います。 水平線が高いということは、通常ならば視高が高い位置にある、見下ろしている位置関係となります。ところがミレーの作品ではそうではない。対象の人物と平行な位置関係にあるのではなくて、対象人物が実際に自身よりも高い位置にいるのを見上げている(自分は低い位置にいる)そのために水平線が高くなっているわけです。 では、そうした作品はどういうことになるのか? 極論してしまえば、ミレー作品には遠近法の必要性がない、ということです。遠近法を狂わす構図をとるわけですから。そして、風景などは、ただ、だたっぴろい所なんだなぁ、というのがわかればいい。向う側にも遮るものがない、畑続き(農地や平原の続く)の土地なんだなぁ、というのがわかればいい?のですから(こんな風に極論すると怒る人がいるかもしれませんが…) 問題となるのは、そこにいる人物です。人物は視線よりも高い位置にいる。ということは、一般的にはその人物が際立つ、ということです。もしくは仰ぎ見ることになるのですから、その人物が力強く見える、その中で独立したものとして見える、ということになります。
■美は何時、どこに宿るのか? さて、次のミレー作品の特徴に行く前に…おまたせしました。棚上げにしてきていた問題(今まで「かなり信憑性に乏しいぞ…とお考えの方に)、と上記の二つの特徴どこに集約されるのかに移ります。 逆光と半逆光となると人物の顔は、ほとんど暗く潰れてしまいます。でも絵画なのですから、別にストロボで光源を当てたかのように、顔を描くことだって可能ではあります。しかし、ミレーはそうしないことを選択した。これは、ありのままに再現的に描く、という意味合いではないでしょう。 何故なら、ミレーは次のように語っていたといわれます。 「しかし、美は顔に在るのではない。姿態の全貌、主題の動作に適しいものの中で輝くのだ。……美は表現(エクスプレッション)である」(サンシエが伝える「美に対するミレーの考え方」より)「作品解説 ミレーの作風、概観」 著:原田平作 『ボストン美術館蔵 田園と抒情と祈り ミレー展』 発行:日本テレビ放送網株式会社 1984 p153に所収) そうした考え方を持っていたとしたら、顔を重視して描く必要はない。あくまでも主体は「姿態の全貌」であるのだから、顔はその補助的なポジションにすぎない。そして、顔を重視したくないから、逆光のポジションをとる、というわけでもない。あくまでも主体の「姿態の全貌」を、より優先した位置に置きたいからこそ、そのポジションをとる。 そのことの証明?として、やはりミレーの言葉を… 「どんなものでも時と場所を得さえすれば美しくなるものだし、反対に時宜を得なければ、何ものも美たりえないといえる」(1863年6月2日付 批評家ぺロケに宛てたミレーの手紙より/「作品解説 ミレーの作風、概観」 著:原田平作 『ボストン美術館蔵 田園と抒情と祈り ミレー展』 発行:日本テレビ放送網株式会社 1984 p153に所収) ミレーは、「姿態」に美が宿る「時と場所」を待った…というよりも、そのポジションニングを自分が動いて獲得したということになります。 「時と場所」とは、「姿態」が光を受けるときの自分の位置関係(逆光、半逆光、真横)であり、「姿態」に対しての高さや距離との関係です。 「姿態の全貌」がミレー作品の核であることが明白であるならば、どうしてそのようなポジションにしたかはもうおわかりですよね。 「姿態」は逆光の時にシルエットというフォルムになって強調される。半逆光のときには、より「姿態」が立体的なもの(力強いもの)として強調される。そこに、さらに人物(姿態)が際立つ視線が足される。「姿態」に集中させるためには、周囲の遠近法はほとんど必要とはならない。室内の肖像画を描くように(ミレーは肖像画ではなく姿態画でしょうが)。全くはっきりした取捨選択がなされているのです。簡潔だからこそ、そこにあるイメージが伝わりやすい。
■寒色のアクセントをつける場所 ミレーの作品は、本来厳しい肉体労働の場面を描きながら、何故穏やかで暖かなイメージを与えるのか? 取り上げられている主題について、このコーナーで取り上げることはしません。ミレーの主題については、既にごまんと様々な書籍が発行されているわけですから。 では、その他の観点からといえば……、使われている色彩ということになります。作品の中で中心に使われる色彩といえば……グレイッシュ〜ダーク・グレイッシュまでのトーン<ダル(鈍調)、ディープ(濃調)、ダーク(暗調)などがその範囲に入る>のR(赤)、YR(橙)、Y(黄)が中心。 これらの色彩の範囲をあるカテゴリーに入れるとしたなら何になるか? それは暖色ということになります。暖色の色彩がほとんどなのだから、そりゃぁ、イメージとして……というか、大地などに対するイメージからそうした色彩のイメージが私たちに構成された…といえるかもしれませんが。 そこで、注目したいのが寒色の使い方。寒色の代表といえば青。青といえば空。しかし、ミレー作品の空は意外なほど青の使用量が少ないのです(樹木の緑を使用する量も少ないが…)。 ミレー作品の空は雲が多く、その雲は無彩色(白〜グレー)の部分はあっても、夕陽に淡いオレンジ色や薄いピンク、黄ばみかかっていることが中心(これらも暖色ゾーンですね)。スカッとした青い空が登場しない。他のバルビゾン派は結構青い空が多いですが…。 何故なんでしょう? この理由は効果面だけを考えれば、そうする妥当性があります。 こってりと暖色で構成された人物と周囲の風景。その背景にスカッとした寒色の青が置かれていたら? これはもう、膨張・前進色と収縮・後退色の関係がピタッとあてはまる。となれば、風景と人物がさらに強調されて私たちに迫ってくる。 それはミレーとしてはあえて望む効果でしょうか? かなり適してはいるでしょうが、「姿態の全貌」を打ち出したいならば、ここであえて風景まで押し出す必要はないでしょう。ここでは彩度、トーンの違いによって、穏便な程度に押し出しておくのが妥当な線では? となると寒色の出番がない? しかし、寒色がないとさすがに画面が重々しくなりすぎて、かつしまらないことにもなりかねない。 そこで? 姿態に焦点を合わせたいのだから、姿態に青(寒色)を使用すればよい。それを服装の色として! 《種をまく人》は青系のワークパンツをはいています。《樽のたが締め》では青のワークシャツを着ています。《羊の毛刈り》では、女性は青系のワークシャツと肘当て?を男性も青のワークシャツを、《編物のお稽古T》では女の子が青い上着を、《洗濯女》の一人の女性は青緑のシャツを、《馬鈴 植え》では男性が青い帽子、女性が青いターバンと肘あてを、《昼休み》では男性が青いワークパンツを、《生まれたての子羊》では若い女性が青の帽子とスカートを、《落ち穂拾い》ではある女性は青い帽子を、ある女性は淡い青の服装を、《羊飼いの少女》では少女が青いスカートを、《鶏に餌をやる女》では女性が青いカットソーを、《晩鐘》では男性が青いワークパンツを……このくらいでやめておきます。実際にはまだまだあります。 暖色の中に置かれた寒色によって、周囲の同系色へ沈みこみそうにもなる「姿態」の部分を補完したり、また作品の「姿態」部へと眼を惹きつける役目も果すわけです(今回、私はあくまでも姿態にこだわります)
■豊かな肢体の形状 ミレーの作品に登場する人物たちはどうでしょう? 皆ふくよかな(豊満?)で恰幅の良い人物たちです。それは体質とかたづけるのはどうでしょうか。同じフランスの美術家ビュッフェなどが描く人物は、とてつもなくやせ細った、尖がった人物ばかりです。幼少の頃から肉体労働などをしてきたのだから、といわれれば筋肉質であるということならば納得できますが…。それに基本的にそう豊かではない当時の農家の人々(収穫後の落ち穂を拾うのですから)が豪勢な食事ができていたとは思えません。 まぁ、登場人物の手が大きいというのは、そうした肉体労働を続けてきたという理由からは推測できます。「この手を働きものの綺麗な手だと言ってくださる」といったような発言があったのは宮崎駿 氏 原作・監督の『風の谷のナウシカ』。 『風の谷のナウシカ』の漫画本(あくまでも宮崎氏が雑誌に連載していたも。全7巻)を見ると、宮崎氏の漫画のタッチや人物造形は、ミレーと相当数の共通点がある(女性の腕なんかかなり太いですし、版画のタッチなど)と私なんかは思います。 何が言いたいのかといえば、フォルムが全体的に丸くなっていたり、曲線が中心であるということ。彼等、彼女等は、大地に向かって仕事をしているのですから、当然うつむき加減になる。ということは、自然と体のライン(頭部から首、肩、背中に向かって)もカープを描いていきます。羊飼いの少女たちも、羊たちを連れながらも編物などをしているので当然目線が下がり、肩から背中にかけてのラインもカーブを描きます。 《種をまく人》はどうかといえば、レオナルド・ダビィンチの人体図を持ち出すまでもなく、人体というのは手を広げたり脚をひろげてみると、ひとつの円状に収まるわけで、《種をまく人》は、そのアレンジ版のような円状のポーズになっています。 そうした円や丸い形状が、私たちにどのようなイメージを喚起させてくれるかについても、さまざまな書籍で論じられてきたことなので、私があれこれ理由づけする必要はないでしょう。穏やか、おおらか、優しい、などなどといったイメージがでてくるのが通常です。しかも、登場人物たち自身もそれをさらに強調するかのようなふくよかな体型をしているのですから。そして、それはあくまでもそれらの「姿態の全貌」のフォルムから漂ってくるものなのです。 ミレーは今回問題とした光源に対するポジショニングについて(とも読み取ることも可能な)次のようなことを言っています。 「夕暮れの光は私の目を鋭くし、私の思考をはっきりとさせてくれるため、大変大事なものだ。それは私の最良の師である」 ( 「作品解説」 著:井出洋一郎 『ボストン美術館蔵 田園と抒情と祈り ミレー展』 発行:日本テレビ放送網株式会社 1984 p165に所収)
※文中の太字は筆者の私、トビー高橋の独自の判断によって行ったものです
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<ミレー関連書籍>
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