絵画の制作技法・構造と効果 red05_next.gif アメリカン・シーン > エドワード・ホッパー/やがて浮かび上がる領域と感情投影のモデル


  

  

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 人の通りが途絶えた深夜の街に、唯一光を溢すダイナー。そこには年老いた店員とカウンターに座る訳ありの男女。少し離れた席には一人の中年男性が…。エドワード・ホッパーの作品の中で最も著名な《夜更かしの人々》の光景。

 エドワード・ホッパーは“(大都会の)孤独”を描いたとよく称されます(舞台は都会とは限りませんから)。

 まぁ、ホッパーが描ききったものが実際に“孤独”なのか、“寂寥感”なのか“喪失感”“近代社会に対する皮肉”なのか、などなど、どのようなものであるかの解釈は、当コーナーの範疇ではありません。しかし、ホッパーの作品に対峙した私たちが、一般的に共通して感じる類似の感情(上で延べたようなこと)が想起される(起こる)のはなぜか? 今回はそこに注目してモデルを構築していきます。

 (そのためホッパーの人物の登場しない風景画作品は除外します。また、作品はいわゆるホッパーのスタイルがほぼ確立していった1925年以降のものを対象とします)

 

ホッパー作品に共通する要素

 ホッパー作品を一定数以上見たことがある方なら、誰でも次のことには気付いているはず。登場人物は一人でいることが多い、複数の人物が登場する場合は画中人物同士の視線が交錯することがない(それぞれが別のものを見ている)。

 そのことがいきなり“孤独”とか“寂寥感”とか“喪失感”になる、というわけではないことはもちろん誰もがわかっていることです。でも、まぁ、そこへ至るための、初期段階での前提条件であることには異論はないはずです。

 ならば、こうした前提条件を幾つも積み重ねていくことによって、ある程度は、ホッパー作品の独自の構造・モデルに近づくことができる、と考えることもできます。では、とりあえず、その仮説を信じてホッパー作品の多くに共通する“目に見える要素”を取り出してみますか…。

 まずは、@画中の建物や壁は白が圧倒的に多い。これが前提条件? と思うかもしれませんが、別に前提条件であるかどうかは考慮せずに、要素(項目)だけを取り出していきます。ばかばかしいと思われても、とりあえず私は勝手に進めます。

 A光や日差しが強い、影が多い(影が多くて形がみにくいなぁ) B登場人物はたいてい外を眺めている(暇なのか?) C外を眺めていない登場人物はたいてい読書をしている(その本は面白いのか? もしくは暇つぶし?) D画中内の推定時刻は朝か夜、夕暮れが多いぞ(昼を除いているだけじゃないか) E登場人物はほとんど無表情だ(楽しいことや悲しいことがないからさっ) F登場人物はだいたい何かに腰掛けているか寄りかかっている(お疲れ気味? 単に立っている理由がないからですか) G登場人物はだいたい部屋の窓の近くか庭先、玄関口にいる(だって今他に行きたいところや必要がないからさ) H登場人物はこっち(鑑賞者の方)を見ていない、気付いていない I登場人物がクローズアップして描かれることはない、その周辺空間が大きくとられている J通りには人気(ひとけ)がない、部屋の窓から見える外の風景にも人気はない(ゴーストタウンか?) K(私たちが外にいる場合には)部屋の中はほとんど見えない L部屋の中では差しこむ光がはっきりと見える M部屋の中から外の風景が見える、庭先や玄関口にいる場合にはもちろん外の風景が見える 15 私(鑑賞者および作者)は、登場人物と同じ目線の高さか、見下ろしている

 付き合うのに疲れたかもしれません。さて、ざっと、こうした要素を取り出したので、それぞれグループ分けしてみます。

 Aグループ { @ A D J L } / Bグループ { B C D E F} / Cグループ { D G I K L M} / Dグループ { F 15 } / Eグループ { H J L }

 グループに重複している要素もあります。しかし、これでは非常にわかりにくい。プログラマーだってわかりにくい。ということで、それぞれのグループに名前をつけます。

 Aグループ=コントランス Bグループ=忘我 Cグループ=境界領域 Dグループ=視高 Eグループ=意識的演出

 さてと、これでやっと下準備が整いましたので、これからそれぞれのグループについて検討していきますか。それぞれが、どのような関係や作用をもたらしているかを。

 

色彩・明度と質のコントラスト

 Aグループは、{ @画中の建物や壁は白が圧倒的に多い A光や日差しが強い、影が多い D画中内の推定時刻は朝か夜、夕暮れが多い J通りには人気(ひとけ)がない、部屋の中の窓から見える風景にも人気はない L部屋の中では差しこむ光がはっきりと見える}というコントラスト。

 コントラスト(対照)の特徴は、著しく異なるもの(色彩や質)を並列させることにより、個々をより強調させる効果がある、というもの。ホッパーの作品は、日差し・光線のニュアンスを表現したものとも言われますが、光を描きたくて影を作ったのか、影を描きたくて光線を作ったのかは、互いが作用し合うので、そのどちらであるかはここでは問題にしません。

 とにかく、Aは明と暗の構図を作っているということです。だからBも必然的に暗・影の部分ができえる朝か夕暮れの時刻となり、夜は光の有り無しによって作りだすということになる。そして、こうした明暗(明度)を最も表現しやすい色彩が白と黒。なにしろ、白、グレー、黒などは“無彩色”であり、明度の変化でできているので、その変化の移行を画中でも認識しやすい。

 たとえば、淡いベージュとこげ茶は、同じ色相の明度の変化したものであっても、画中の中にあると、それは個々が持つそれぞれの部分の固有の色と認識してしまう恐れがある。わざわざ明暗のコントラストを作ろうとしているのに、それを台無しにする可能性のある色をあえて選択する必要はどこにもない。だから、ホッパーは@の舞台を意識的に選択した、ということになります。

 では、色彩のコントラストを離れて、今度は質のコントラスト。Lは、屋内と屋外のコントラストを作り出している。区切られた二つの空間があり、その一方には人がいて、片方には人がいないというのも立派にコントラストが成り立ちます。

 では、そんなことがあるのか? という疑問に対しては、日常空間の中でそういう場面に稀に出くわす経験は誰もが持っている、という答え方になるでしょう。あるといえばある、しかしほとんどない。そのとき、ホッパーがたまたまそうした場面を見出したということもあるでしょうし、意識的に演出した(自分の過去の体験を参照して)ともいえる。別に作品において、演出したからといってそれに対して憤慨する人は今更いないでしょう。事実のニュース報道とは異なるのですから。

 とにかくホッパーは、ここで人物配置による質のコントラストも作り出している。ということは、コントラストの特徴として、人の存在という眼に見えるものを強調するのはもちろんのこと、人の不在というものもより強調される

 ホッパー作品は、明度と質のふたつのコントラストを用いている、ということを認識したなら、次にいきましょう。

 

曖昧な領域がもたらすもの

 Bグループは{ B登場人物はたいてい外を眺めている C外を眺めていない登場人物はたいてい読書をしている D画中内の推定時刻は朝か夜、夕暮れが多い E登場人物はほとんど無表情だ F登場人物はだいたい何かに腰掛けているか寄りかかっている }の忘我。我を忘れている、意識がこの場所に事象にとらわれていない、ここにない状態。

 ここは、ほとんど説明する必要がないでしょう。読書しているときは、その活字の世界に捕われて(想いをはせて)意識は、この場所にはない。外をぼんやり眺めるという行為は、皆さんもしているので割愛(と書いている、1月17日 窓の外を眺めたら、ここ東京日野市に今年最初の雪の華が落ちてきました。中島美嘉の曲とは違って、この時寄り添って見ているのはホッパーの図録だけなんですが…)。無表情のときというのは、ぼおっーとしていたり考え事しているときですしね(たまに考え事をしながらニヤついたりしている人をみかけますが)。そういう状態になるときは、大抵座っているときです。立っているときは何かを行う目的があるときだし(電車で移動中などのときは例外ですが)。

 時刻だってそうです。昼は一般的には、学校やら仕事やら家事などがあって、目の前にあるものをバリバリとこなさなければならないから、ぼんやりとはしていられない(もちろん休日は除く)。ふっと、自分の意識に戻る時は、そうしたものが終了した後か、目安がついたりした休息時間でしょう。

 とにかく、ホッパーが選んでいるのはそうした場面、瞬間であるということです。ここにいながら、意識は目の前のことにない状態。肉体はここにありながら、肉体と意識の感覚が離れている瞬間。感覚が自分の意識の中に沈みこんでいる状態。そういうときには、人は無防備で不安定な状況にいるともいえるでしょう。これを意識の表と裏とはいいません。ではなんなのか……。これは次のグループと関連してきます。

 Cグループは{ D画中内の推定時刻は朝か夜、夕暮れが多い G登場人物はだいたい部屋の窓の近くか庭先、玄関口にいる I登場人物がクローズアップして描かれることはない、その周辺空間が大きくとられている K(私たちが外にいる場合には)部屋の中はほとんど見えない L部屋の中では差しこむ光がはっきりと見える M部屋の中から外の風景が見える、庭先や玄関口にいる場合にはもちろん外の風景が見える }の境界領域。

 窓の近く、玄関口、庭先、(外でもガソリンスタンドの敷地内や海辺の日本風にいうと海の家の敷地内、二階のバルコニーなど)は、内と外との世界・空間の境界線上の領域です。朝と夕暮れときも、夜と昼が入れ替わる境界領域の時間。

 ということは、ホッパーは必ずといっていいほどこのふたつの空間が対峙する、曖昧な領域を意識的に選んでいる。ということは何を意味するのか? 曖昧な領域、どちらともいえない、どちらかといえないものを前にして、貴方は何を知覚するのでしょうか? 

 ある特定の問題を出されて(5択のテスト問題を想像してもらってもいいです)貴方にとってその問題の答えがどうもはっきりしない場合、消去法によって答えは(a)か(c)のどちらかだ!とか、こっちともいえない、でもあっちともいいきれない、などと迷います。

 そうなのです、その時には、曖昧さを意識すると同時に、その曖昧さ成り立たせる二つの特定のもの・条件などを強く意識せざるをえない。そうした心理的作用に働かきかけるものを、ホッパーは意識的に構図として取り入れている。

 構図としてこうした曖昧な領域を設定するために、ホッパーは人物のクローズアップを用いない。別にその人物を主題にしているわけではないのですから。その境界領域を知覚させるために、わざわざ家や敷地の内と外の風景をも取り入れた構図を選択する(二つの世界の領域の端を画面の中に並列させる)。

 そういう観点から、もう一度Bグループの忘我をみてみるとどうでしょうか。登場人物は、日常空間の中における非常に曖昧な領域にいるといえないでしょうか。

 曖昧な領域は、その曖昧さを生み出している二つの領域から常に相互の侵食の影響を受ける、やっかいな領域です。Lは日差しは部屋の中に侵食し、室内の照明は夜の闇へと侵食を行う……。

 

投げ込まれた人物は仕方なく対峙する

 そして、ホッパーは、そうした領域にあえて人物を投げ込むのです。何故投げ込むのか? そこにホッパーの表現したいものがあるから、ということになるでしょう。

 曖昧な領域に投げ込まれた人物は、二つの領域からの影響を受けざるをえません。投げ込まれた人物を私たちが見る事によって、私たちに何が起こるのか?

 そこで、残っていた最後のグループ、Eの視高です。これは純粋に絵画制作の時の遠近法の中のひとつです。視高とは何ぞや? と思った方は、こちらを参考にしてください。

 ホッパー作品内の観察者(作者のといってもいいですが)は、常に立っています。作品内の空間を歩き回っているといった方がわかりやすいかもしれません。観察者(作者のホッパー、あるいは意識的な目線)は、いろんなところを歩き回って、ある場面を目撃しています。だから、家の前に立っていたり、部屋の中で立っている画中の女性たちとは、目線の高さがほぼ同じです。ホテルや電車やカフェの中を歩き回っているときに画中人物に出会った場合、その人物たちは大抵座っているので、やや上から見下ろすことになります(そういうときには、人物たちは俯いているか、考え事をしているか、読書していますが)。そしてリゾート地などの場合には、一緒に座ったりします。

 そうして画中人物と私たちと目線の高さがほぼ一緒のときには、大抵画中人物たちは、外を見ています。ここがひとつのポイントでしょう。私たちは、画中人物を同じ視高で見ている。すると、その人物に誘われて、その人物が見ている方向を見る。そこにはあるものが描かれている(ILの理由でもあります)。そこに見えるものは、画中人物が見ているものと同じ風景の一部である。

 そして、視高が同一にされた場合の効果は、その画中人物と同じような気分、画中人物に対する親近感、画中人物の一人となったかのような気分が生まれることです。ということは…

 それはここでの最初の質問の答えとなるべきものです。それは、私たちもそうした曖昧な領域に放り込まれるということです。

 こうした二つの侵食し合う領域は、さまざまなところで見受けられます。私たちは社会的な秩序と自然の秩序の双方によって生活しています。そして自分本来の姿とは別に、社会において担う役割と家庭内での役割などの領域にも足を突っ込んでいます。二人の男女が結婚してともに暮らすということにおいても、そこに愛情と実用生活の領域があったりします。などなど……。ここにあけだことは、私が連想で取り上げたことではありません。実はこれらはホッパーの個々の作品に登場する、ふたつの領域の局面のほんの一部です。

 そして、私たちは、普段はさほど意識しなくても、実はそうした領域に存在しているのです。現実そのもののひとつなのです。でも、そうしたことは、前にもいったとおり結構やっかいなこと。手におえないことも多いものです。だから、普段はあまり意識しないですませようとする。しかし、今度は画中人物を見ながら、画中人物をとおして領域に出会わされている。その領域に面と向かって対峙せざるをえなくなる(もしくは誘導を図る)という鏡面的な仕掛けがここにあるのです。

 だから、その人物がどのように見えるか、どのように感じるか、ということは鑑賞者によって異なる(これは解釈を阻む、感性にまかせるということとは違います。幅がありすぎて、ここでは定義できないということです)。そこに感じたものは、貴方の投影のある部分でもあるのですから。

 

打ち消しあっていても、やがては浮上する

 さて、仕上げに向かいます。これまでのことを意識しながら、作品を見ていきましょうか。まずは、1940年の作品《ガソリンスタンド》(相変わらず自前の簡易な参考図ですが…)

 中年から初老にかけての男性がガソリンスタンドの敷地内に立っています(外と内の曖昧な領域の場所)。時刻は日没前後(またもや曖昧な領域の時間)。

 ガソリンスタンドの施設内、もしくはこの男の住居からは光が漏れています。その近くに見える森は闇の中に沈みはじめています(色彩・明度のコントラスト。もちろん、その施設の壁は白で、その壁面の大部分は夕闇でグレーの色になっています)。画面の向かって約半分から右は、男と給油スタンド、施設、看板などが描かれていますが、左半分は森(林)だけです。そして、そこには人も車もまったくありません(質的なコントラスト)。

 と同時に、この場所自体が、ガソリンスタンドという近代社会の象徴的領域でありながら、森という自然の領域内に食い込んでいる曖昧な領域の場でもあります。

 曖昧な領域が、それを成り立たせる二つの要素を際立たせるのであれば、それはコントラストと類似した効果です。ということは、ここにはコントラスト的なものが3種類、計5つも用いられている

 5つもコントラストも用いられていれば、それぞれがそれぞれの効果を打ち消しあって、どのコントラストが際立っているかは、瞬時にはわかりにくい。まぁ、絵画なのですから、最初に色彩のコントラストに眼が行くのがでしょうが。まずは、その人目を引いて作品に誘導するという効果を、色彩のコントラストが果しているともいえますが。

 ここも、ホッパー作品の懐の深さを生み出しているポイントといっては、まずいのでしょうか? ホッパー作品がじわじわと効いて来るのは、最初に見つけたコントラスト的なもの(鑑賞者にとってそれは異なる)以外のものが、段々と見つかってくる。ある時、見るとホッパー作品が違った意味合いに見えたりする、そういう鑑賞者の発見の喜びをももたらすものが幾つも混入されているわけですから。そして、それは鑑賞者が必死になって読み解こうとしていく必要はあまりない。何故なら、コントラスト的なものは、対象それぞれを強調していく効果があるのだから、それぞれが自然と浮かび上がってくる。それがコントラストであるということを認識しなくとも。

 参考までに、あえてもうひとつ(参考図はありませんが)。

 作品は1952年作の《線路沿いのホテル》 。男はホテルの窓際に立っています。時刻は日が沈みかけている夕暮れ(ともに曖昧な領域です)。夕暮れであるのは、光線が黄ばんでいるからです(ホテルの外壁は白であり、そこに黄色とわずかなオレンジ色があるから)。窓から見える向かって右側の風景は全体の1/3以上あり、そこには人かげはまったくありません。対して、室内には男と女(夫婦でしょう)がいます(質的なコントラスト)。夕暮れの光が窓の外と室内の一部に入り込んでおり、そのほかの室内は暗くなっています(明度・色彩のコントラスト)。男は立ち、女は座っている(まぁ、これをコントラストというには少々無理があるか)、女は読書しています。男は煙草らしきものをもちながら、ぼんやりと外を眺めています(忘我の曖昧な領域)。男と女の視線は当然のことながら全く交わりません。そして、男も女も初老の頃をすぎています。男と私たちは同じ視高をもっています。そして、男の視線の先の外の風景を見ると、線路があり、しかし、その先には大きな建物が立ち塞がっています。その先の風景が見えません。

 これはどちらかといえば、象徴的な記号が数多く使われている作品といえるでしょう。コントラストや曖昧な領域といった意味合いよりも、象徴的な面からの気付きの方が表にでてきてしまう作品。だから、ホッパーの作品ではあっても、ホッパーらしさがスカッと立ちにくい。だから、私なんかは、ホッパー作品の中で、この作品のポジションというか価値づけをあえてするならば(そうすることにどのような意味があるかが多々意見があるでしょうが)、評価は高くないということになります。

 後は皆さんがホッパーの《夜更かしの人々》なり、若い男女が深夜にコテージで話あっている《夏の夕暮れ》、初老の男と若い女性が二階のベランダで日光浴をしている《二階の日差し》などの著名な作品を検証してみてください。もちろん、ここにあげたのはホッパー作品の構造のひとつのモデルであり、ほかにもいろいろな意図が見つかるでしょう。《真昼》や《サマータイム》には性的な意味合いが多分に含まれている、ともいわれてますし…。

 最後にホッパーはこのように言っています。

 「私にとって様式、色、形態は、むしろ目的のための手段、私が制作するために使用する道具であり、それ自体は私にとってなんら興味の対象ではないのです。私がもっとも関心を抱いているのは、経験と感情という広大な分野であり、文学にせよ純粋に作意的に指向された美術にせよ、これに取り組んでいるものはありません。(略)

 絵画において私がめざしていることは表現手段として常に自然を用いることで、私が最も対象を愛したとき、つまり事実が私の興味やあらかじめ想像したものと一致したとき、その対象のあるがままの姿に対する私の最も内なる反応をキャンバスに投影しようと試みることなのです。何故私が、ある特定の対象を他のものからより分けて探しだすのか、それは私自身にもはっきりとはわかりません。ただ、恐らく私の内的な経験を統合するのに、それが最高の表現手段なのだとおもいます」 (O'Doherty, Brian: American Masters:The Voice and the Myth, NewYork, 1973.p22/『タッシェン・ニューベーシックアートシリーズ エドワード・ホッパー』 著:ロルフ・ギュンター・レンナー 発行:タッシェン・ジャパン 2001 p9―10)

 

(文中の太字は筆者の私、トビー高橋の独自の判断によって行ったものです)

 


 

 

  

 

 

 

 

 

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