絵画の制作技法・構造と効果 >ラウル・デュフィ 香りだす雰囲気といもいうべきリアリティの様式


  

  

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 華やかで明るい色彩のデュフィ作品。ポスターになっている作品の数からもその人気の高さを伺い知ることができます。それも老若男女の年代層を超え、またどちらかというと“美術”とは比較的に縁遠い層から多くの支持を得ています。それは、何故なのか?

 色彩が華やかであるだけで、その支持の高さを解釈するわけにはいきません。色彩の華やかだけで比較したならば同じフォーヴィストのドランの方がより華やかです。具象的な作品だから? まさか…具象的な作品なら山ほどあります。

 では何が違うのか? その答えはデュフィ作品がポスターとなって今でもインテリアとして利用される頻度の高さから考えれば、ひとつの仮説が成り立ちます。

 インテリアとして成立するための要因とは何か? インテリアなのですから、あくまでも室内との調和が優先されます。そして、部屋の雰囲気を決定するもの。そう、部屋の“雰囲気”づくりのひとつ。

 デュフィの作品が幅広い層に受け入れられるのは、作品に込められた思想、作者の生き方に対する共感、美術家のネームバリューム、美術史上の様式・革新の意義、といったものよりも、作品がわかりやすい“雰囲気”を持っているからでしょう。

 では、その“雰囲気”って何なんだ? ということになります。その“雰囲気”は、はっきり言ってしまえば、デュフィ作品の個々によって異なります。何か、堂堂巡りをしているようになってきました。ここは、あくまでも“まえふり”なのですから、デュフィ作品の個別の“雰囲気”については論じません(後では雰囲気、主題として出できます)。

 そして、今回は、そのデュフィの“雰囲気”がいかに作られているか、その意味とはに焦点を絞込みます。何故なら、この“雰囲気”といえるようなものこそ、デュフィ作品の真髄でもあるからです。

 (なお、ここでは1915年以降の風景画作品を参照するものです)

 

デュフィの求めた《リアリティ》とは?

 デュフィ作品を見たことのある方なら、カンヴァス上の対象の輪郭線(主に黒や茶、白、青で描かれることが多い)が簡素で、ある意味大雑把、乱雑であることに対して異論を唱えることはないでしょう。とくに人物の輪郭線などは子供が描いた線とそう大差ない…と言えなくはありません。

 では、どうしてデュフィは、こんな簡素な、しかも部分部分ではありえない比率になっても平気で、大雑把に線を描くのでしょう。そのことについては、デュフィ自身がこう語っています。

 「私、私はと言えば、絵から外にいるのだった。浜辺で何かのモティーフの前に着いて、位置を決めてから、絵具のテューブと筆を眺める。これらを用いて、私に見えているものではなく、そこにあるもの、私にとって存在するもの、《リアリティー》が、どうしたら表せるのか。問題はそれだった[…]。それで私はデッサンをし、自分に納得のゆくものを自然の中で選び始めた。[…]その日から、私の視界に示される要素による不毛な闘いに復帰することは不可能になった。それらの要素は、外形によって表現することが問題ではなくなってしまったのだ」(『RAOUL DUFY デュフィ作品集』(著:ドラ・ペレス=ティビ 訳:小倉正史 発行:リブロポート 1993 p23)

 デュフィは対象を忠実に再現することに意義を見出せなかった…正確には対象の形態を再現すること以上に重要なことを見出したわけです。それは「《リアリティ》」であるといっています。では、リアルであるということはどのようなものでしょうか。

 ある対象を克明に細部まで描きこまれたものを見ると、私たちは「リアルだ」なんて感想を持ちます。しかし、そこでいう「リアルだ」は本物の対象物と比較して「本物っぽい」という意味です。「本物っぽい」と「リアル(現実・本物)」は異なります。

 デュフィはあくまでもリアリティを求めた。その「リアル」ということについてはデュフィ自身が補足説明をしてくれています。「描くということは、物の外観のイメージではなくて、実在の力を有するイメージを出現させることだ」(Carnet n゜23,第13葉(整理番号 A.M. 36-66-D, musee national d'Art moderne) (『RAOUL DUFY デュフィ作品集』(著:ドラ・ペレス=ティビ 訳:小倉正史 発行:リブロポート 1993 p22に所収)

  なんとなくイメージが掴めたでしょうか。まだなんとなくも…という方には、こういう例はいかがでしょう。友人が仲間うちでパーティをした時の写真を見せられました。一枚は友人の仲間たちが整列し、そばにはクリスマスツリーがきらめいている写真。もう一枚は友人たちが騒いでいる(ある者はグラスを片手にし、ある者はクラッカーを鳴らして、ある者はその音によって首をすくめているなど)場面の写真。どちらもパーティの写真です。

 では、その場にいなかった貴方にとって、どちらの写真がそのパーティ自体をより体験・体感できる写真でしょうか? 

 この問いに別に答えは必要ありません。ここで、どちらがどうだという話をすると、ここで出した例は妥当なものではないため論旨をすりかえたものになってしまいます。ここで問題にしているのは問い自体

 その写真から、デュフィの言った「実存の力」、パーティにおいてはカーニバル的な日常空間とは隔絶した異空間の創出(高揚感、見知らぬ人も来るという緊張感、ドキドキする感じとか、羽目をはずした楽しさといったものもあるでしょう)を見た人が体感できるか、ということです。六本木の○○という店に何十人が集まり、店の内装はどうで、食事と飲み物は何が出て、ビンゴゲームの懸賞品が…という情報や記録とは別次元のことです。

 そう、簡単な言葉でいえば“雰囲気”。その“雰囲気”“ニュアンス”の再現、正確にいえば、作品からそうした新たな“雰囲気”が現われてくるかどうか、似せたのではなく、新たなものとして本物の体感が得られるかどうか、ということに向かったのです。

 そこが、色彩によって現実を再構築するドランなどの他のフォーヴィスムの美術家との決定的な志向の違いでもあるのです。

 そのことによって写実的な線が不必要か? ということには直接つながるとはいえません。しかし、少なくとも写実的な線や形態の再現は優先順位が下がったということにはなります。このことを踏まえて次に進みます。

 

遠近法の不採用

 現実を参照しながら新たな現実感覚を作り出すことにしたデュフィにとって、現実を現実らしく再現する一つの方法である遠近法を用いた構図の作品はほとんどありません。遠近法を使用すると新たな現実の創造が無理であるということにはなりませんが、線と同様に優先順位が下げられた結果であるとはいえるでしょう。

 形態ではなく、「実存の力を有するイメージを出現させる」ことにしたのですから、自分の作品はそうしたものであるのだ! とおおやけに示すために遠近法を棄てた、ある種の決意といってもいいかもしれません。

 では、何故、線を簡素に(フェルム・形態を)省略させて、遠近法も用いないのか? という疑問が必然的に浮かんできます。また、線を大雑把にして、遠近法を用いないのにデュフィ作品は、パランスがとれていて調和されているように感じるのは何故か? ということとともに見ていきたいと思います。

 

デュフィの色彩の法則=色彩の秩序

 デュフィ作品において色彩が重要な鍵を握っていることは、作品を見た方なら誰もが感じるはずです。

 そして、デュフィ自身もこう語っています。「次のことを覚えておいてください。私の作品には大地も奥行きもない、色彩がありその関係が空間を創り出すのです。それがすべてです」(『パリ近代美術館展』 作品解説 発行:アート・ライフ 1999 p106)

 代表的な作品のひとつ《薔薇色の人生》などは、カンヴァス一面にさまざまなピンク系の色彩が配色され明るく甘い香りを感じます。

 これは私がピンク色に対して感じている色自体のイメージに関係があります。私はピンク色に甘い、もしくは甘ったるいというイメージを持ちます。フェミニンというのもあります。そして薄い青には透明感やすがすがしさ、赤には激情やはげしさ、黄緑には……などのイメージを感じたりします。

 固有の色彩は、ある種の類似したイメージを喚起しやすい、ということはさまざまな色彩心理学で語られつくされていることです(形態についても同様ですが…。カンディンスキーなどは形態によるさまざまな分類を行っています)。そして、そうしたカラー・イメージをもとに、商品のパッケージや展示の仕方を考案するカラー・コーディネイターという職業までもあるわけです。

 デュフィはそうした色彩自体のイメージの喚起力を「実存の力を有するイメージの出現」のために優先した

 では、色彩をどう配置するのか? 何色を選択するのか? デュフィは遠近法を用いることではなく、“色彩による秩序”を考案することによってそれを達成したということなのです。

 デュフィは次のように自身の色彩の秩序を見つけ出したときのことをこう語っています。

 「私は自分のシステムを発見していた。その理論はこうだった。太陽の光を追うことは時間の無駄である。絵画の光はまったく別ものだ。コンポジションの配置を割り振るのが、光、光=色彩なのだ」 (Pierre Courthion, Raoul Dufy, Geneve, cailler, 1951. p66)(『RAOUL DUFY デュフィ作品集』(著:ドラ・ペレス=ティビ 訳:小倉正史 発行:リブロポート 1993 p24に所収)

 そして、作品の基調を成す色彩の選択の仕方について次のようにも語っています。

 「タブローの環境色はそのタブローの主要モティーフとなる物体の色彩によって決定される。画布の上にその固有色を広げることによって、私はその物体の色彩を中立化し、その色彩が何かの物体を特定化することのないようにする。私はだから、そのタブローの他の要素に対しても、模倣の束縛から解放されることになるし、色彩についての想像力に対しても自由な場が開かれるわけである」(Carnet n゜23 (整理番号 A.M.36―66-D, musee national d'Art moderne) (『RAOUL DUFY デュフィ作品集』(著:ドラ・ペレス=ティビ 訳:小倉正史 発行:リブロポート 1993 p162に所収)

 そして、デュフィ作品の色彩を丁寧に見ていくと、あることに気が付きます。それは、作品が幾つかの色彩(環境色を含む)によって大きく区分けされていること、対象の影が存在しない、ことです。

 この理由については、デュフィの言葉で今回たびたび引用している名著の『RAOUL DUFY デュフィ作品集』(訳:小倉正史 発行:リブロポート 1993)の著者であるドラ・ペレス=ティビが、次のように的確に指摘しています。

 「デュフィは、光の抑揚を陰影なしにできることを可能にした3原色の原理に従って、画布の表面に光を配分する。それぞれの物体の上で光と影を分けることを拒否して、光に対して垂直に置かれた物体間での対照的な照明法を用いる。つまり彼は、対照を成す3色のゾーンを垂直か水平方向に並列するのである」 (同p139)

  このゾーンが、画面上における影と光の当たっているところとの区分けのようなものになるわけです。

 

デュフィの色彩の秩序=形態との関係

 作品の基調色の選び方、その配置の秩序などは決定されました。では、形態との関係はどうなるのか? 特にデュフィの作品では、人物や建物などの線が同一の色彩に塗られていたり、人物の輪郭がある部分では固有色を持ち、他の部分では“環境色”の上にあるだけの透明であったりもします。その理由のひとつは、既に上記で述べられています。では、もうひとつの理由は…

 このことについては、デュフィを語る上でよく用いられるエピソードが解明してくれます。

 デュフィが埠頭で制作をしている際に、赤い服を着た少女が走っていった。その時、デュフィの目には少女の形態のシルエットではなく、赤色の印象が長くとどまった、といったもの。

 これは何を意味しているのか? 形態よりも色彩の方が印象にとどまりやすい注意を引くという網膜メカニズムに起因していることはあげられるでしょう。しかし、それだけなのか?

 一歩踏み込んで考えたいのは、くどいようですがデュフィの言った「実存の力を有するイメージの出現」を踏まえて考えなくてはなりません。それは、デュフィ作品におけるモティーフ、主題でもあるのです。

 埠頭で制作していたデュフィ。デュフィにとって、その少女が美しくて気になったのなら、少女の顔や姿が強く印象に残ったとしても不思議ではありません。しかし、デュフィの興味はそこにはなかった。青い海と青い空のもと、静かな埠頭の中で突然、青の反対色の赤の服装をした人が走っていったこと、つまり、青と白(埠頭や雲の色)の光景の中に赤色が現われて移動したことに対する驚きやその光景での赤の美しさに魅せられた、ということではないでしょうか。だから目に焼きついた。印象に残るようになった…今度は記憶・印象のメカニズムとの関係です。

 さぁ、ここで透明になったりする人物群の作品に戻ります。例を出してみましょう。《エプソム競馬場のエレガントな女性たち》。

 デュフィがモチーフとしたもの(主題となったもの)はなんでしょうか? 

 

  いくら参考図が“下手くそ”でも、タイトルになっていますから、この答えは明白です。エレガントな女性たちです。でも、デュフィは女性の容姿にエレガントを見出だしたのでしょうか? 答えはNOです。

 ひとつずつ見ていきますか。まず、ここには男女が描かれていますが、男性は輪郭線のみで固有色を持っていません。“環境色”などの色彩の中に埋没しています。

 では女性はどうでしょうか? ある部分は固有色を持ち、ある部分は環境色に埋没しています。女性の容姿にエレガントさを見出していたならば、容姿の美しさを出す描き方はほかにもあります。

 では、固有色を使われている部分はどのようなものかといえば、ある女性のチェック柄のワンピース、ピンクの日傘とその日傘の色が反映された女性の上半身、黄色い帽子とピンク色の顔と肩口の肌、日傘のピンク色が光の加減で反映する白のドレス…。

 デュフィが見出したのは、競馬場におけるエレガントなファッション、いや緑(の芝生)の上でエレガントに感じた(ファッションの持つ)色彩の組み合わせ(光による色の反射などを含めたもの)だったのではないでしょうか(この下手な参考図では、とても色彩のエレガンスさは望めませんが…、ぜひ作品図版を実際に見てください)

 デュフィが競馬場で見たそのリアリティ、それならば、私たちもこの作品の中で、それを擬似体験ではなく、新しい経験(リアリティとして)体感できます

  そして、透明であるのは何故か? そこでは主題とならないものであるから、主題にとって邪魔となる要素であるから、そして、それらは移ろい動いていくものとしてある残像であるから、でしょう。

 

 さて、最後は蛇足というべきものです。デュフィ作品のリアリティがわかったならば、別に形態の再現性に固執する必要性がないこと、遠近法を別段必要としない理由も把握できたはずです。

 となれば実際の光景を描く必要はなくなり、その対象の大きさや位置関係も自由でいいことになります

 そこで総まとめというべきものとして、もうひとつの例を。作品《ヘンリーのレガッタ》です(レガッタとはボート競走のイベントです)。

 さて、主題が何であるか(デュフィのリアリティ)を考えてみてください。

 

 大体わかりますよね。旗がこんなに大きく、全くありえない位置関係に配置されているのも、旗やボートを漕ぐ人が透明になって同一の色彩の中に埋没しているのも。基調となる環境色がモティーフの色であることからも推測してください(とは言っても参考図があまりにも下手すぎてやはり説明しないと無理ですねぇ……ちゃんとした図版を使用できるようになるには当サイトのサポーター企業なりが出てこない限りは…まぁ我慢してください)

 デュフィのこの作品のリアリティは、競争イベント自体にあります。その競争イベントに対する、対抗意識、喧噪、興奮などなど。大きな国旗が三つあることによる国と国との対抗戦(ワールドカップのようなもの)であることの激しい対抗意識や自国の応援いった燃え上がるような情熱が赤というモティーフの環境色として現われて、カンヴァスの上方3分の1を占めています。

 そして陰影を拒否するために作られた三色による三層は水平線方向につくられており、中段が陸地と海の遠さをも表すような緑、下段が海の青になっています。

 どうです? 対象が簡素な線で固有色を持っていなくとも、実際のサイズとは異なっていようとも、ほとんど遠近法が用いられていなくとも、私なんかは、この作品からレガッタ大会の興奮と対抗意識を体感することができます

 そして、最後にもうひとつ。色彩の作り方についてデュフィはこんなことも言っているのです。

 「太陽を模倣してはならない。太陽にならなければならない

 

 (文中の太字は筆者の私、トビー高橋の独自の判断によって行ったものです)

 なお、文中でたびたび引用した『RAOUL DUFY デュフィ作品集』(著:ドラ・ペレス=ティビ 訳:小倉正史 発行:リブロポート 1993)は名著です。デュフィのそのほかのさまざまな仕事(テキスタイルなどのデザイン関連、女性のヌード像、装飾壁画など)についても、詳しく紹介されていますので、さらにデュフィ探検を楽しみたい方は、ぜひ手にとってみることをお勧めします。

 


 

  

 

 

 

より理解のために

green07_next.gif デュフィの「美術家DATA」

green07_next.gif デュフィの「美術家の言葉」

green07_next.gif フォーヴィスムの「ism(美術運動)の証言」