絵画の制作技法・構造と効果red05_next.gifイタリア未来派の雄 ウンベルト・ボッチョーニ  命ある限り“動き”続けるダイナミックな様式


  

  

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絵画の制作技法・構造と効果 目次

 

  作家マリネッティのたった一人による「未来派宣言」が、発端となって始まったイタリア未来派運動。あまり聞いたことがない? それはそれでいいのですが、それだけでイタリア未来派を素通りしないでください。

 未来派の絵画には、それまでの絵画にはなかった違った魅力があるのです。今回取り上げるボッチョーニは、「未来派宣言」に感銘を受けてマリネッティのもとを訪れ、そこからイタリア未来派の美術家たちの活動が始まります。

 それ以前のボッチョーニは次のようなジレンマに陥っていました。

「正直いって暗中模索だ。いつになったらつかめるのだろうか。新しいもの、今日の工業時代の成果を描きたいのだ。古い壁、古い宮殿、古い主題、追憶にはあきあきした。この目の前にある今日の生活をものにしたいのだ」(ボッチョーニの日記/峯村敏明 「過去になった未来派の現在」 『美術手帖1975年3月号』 p46)

  そして、マリネッティの宣言からボッチョーニは次のような気付きを得ます。

 「次のような言葉を聞いて、私はかれらの語る熱狂、情熱、愛、暴力を理解した。<創造しろ!> 以前にはなぜ創造が行われなかったのか? おそらく今の私と同じだった。しかし、勇気を失ったことと悲しみとが、私を地面に縛りつけていた。……マリネッティの言葉がなんとよく分かることか、攻撃的性格を持たない作品は、傑作ではない」 (ボッチョーニの日記/岡村多佳夫 「未来派になにが起こったのか」 『美術手帖1986年12月号』 p63)

 そこで皆さんも、ボッチョーニ作品の構造分析に進む前に、マリネッティの「未来派宣言」のさわりに目を通してみるのも一考では?

 green07_next.gif イタリア未来派の「ism(美術運動)の証言」 (マリネッティの「未来派宣言」と画家たちによる「未来派絵画宣言」の一部を紹介しています)

 

 イタリア未来派の画家たちが取り上げるモチーフは、上記の宣言の中に現れている主旨を具現化するものとして明白であるので、ここでは画題の意味を探ることはしません。未来派の画家たちが目指したものは、「スピード」「運動」、そしてそこから生まれる「ダイナミスム」を獲得するための新しい表現。

 未来派絵画技術宣言でも、そのことは取り上げられています。

 「すべてのものが運動し、走り、素早く変容していく。そして輪郭はわれわれの現前にとどまることなく、絶え間なく顕われては消える。身ぶりはもはやかつての一般的なダイナミズムが所有していた凍りついた運動ではなく、ダイナミックな感覚そのものなのである」(「絵画技術宣言」 イタリア未来派と諸外国の未来派展の未来派事典/Germano Celant, Ester Coen, Enrico Crispolti, Gabriella Di Millia, Serge Fauchereau, Franco Maffina, Piero Pacini, Claudia Salaris, Gerald Silk, Mario Verdone /「メディアの献立」 『美術手帖1986年12月号 特集:未来派 疾風のアヴァンギャルド』に所収 p84)

 では、このダイナミックな感覚をいかに表現するのか? ボッチョーニ作品は、未来派の中でも突出したダイナミックな感覚を持ちえていると言われています(私個人も同意見というより、ボッチョーニこそイタリア未来派を体現していると感じていますが)。今回の構造分析は、その一点、いかに絵画にダイナミックな感覚を表現しえたかに焦点を絞ります。

 

方向運動とそれを決定する要素

 まずは、ボッチョーニがイタリア未来派運動に加わった直後に描かれた著名な作品、《決起する都市》を見てみます。そこに描かれているのは、煙を吐きあげる工場地帯。そして、そこで馬を使って働く労働者たち。場面は、ボッチョーニが言っていたとおりの「目の前にある今の生活」。

     

   ▲《決起する都市》の概略参考図(自分で簡単に書いたもので恐縮ですが、今回は参考図がないとわかりづらいので)。なお、今回取り上げた作品の図版が、現在販売されている書籍の中で見られるものは、このページの最後に紹介しています。

 しかし、画面は働くものたちの場面にはとても見えません(つたない参考図ではそのように見えるかもしれません。彩色もしてませんし…この図版を現在発売されている書籍で見るとしたら美術出版社発行の『20世紀の美術』 監修:末永照和 です)。働いているように見えないのは、至極当然のことです。彼等が描こうとしていたのは、今の目の前の生活にある「スピード」「運動」「ダイナミック」なのですから。

 この作品には、その後のボッチョーニ作品に登場する、さまざまな構成要素があるので、順に上げていきましょう。

 この作品を私が一番最初にぼんやりと眺めて思ったのは、炎が渦巻いているように見えたこと。実はこの馬や周囲の人物たちは細長い線上のタッチを積み重ねて描かれており、フォルムは確固としたものではありません。そして、このタッチはこの馬をエネルギー体として描くために使われたことは、その周囲の蒸気のようなゆらぎがまとわりついていることから推測できるのですが、こうしたタッチはこの作品でしか使われないので、今回は割愛します。

 そこで、次のような問いが、自分の中では生まれる訳です。何故、炎が渦巻いていたように見えたのか? 炎が立ち上っているように見えなかったのは何故か? そこで、注目したいのが、まずは馬の姿勢と首の曲げ方になるのです。

 話が急に飛びように感じるかもしれませんが、「ベクトル」というものを知ってますか? 高校生以上ならば数学Bで学んだ項目です(私も数学は苦手でしたから、難しい話はしないのでご心配なく。まぁ、苦手とある部分では興味がある、というのは異なりますが…)

 ある基点の地点から北へ8km進んで、そこから西へ4km進んだ時、基点から何km離れているか? というときなどに使われたものです(ここでは何km離れているかはわからなくて結構です)

 ベクトルというのは、そうした(運動の)向き(や大きさ)を示すものです。

 では、あえて、この中央の馬の胴体部を基点にして馬の首の曲線をベクトルで現わすとどうなるか? 黒の矢印が馬の進もうとする方向、そしてその後に馬の首が向けられた方向、そして赤色の矢印がその時の総体の(運動)の方向です。

   

  ということで、この馬の(運動)の向きのベクトルが引かれました。すると、ちょうどそのベクトルの線上に、(参考略図では省いていますが)画面では馬の手綱があるのです。明らかに手綱はベクトル方向の運動の力が加わっています。それを助長する?のは、その手綱を持つ二人の人物。手綱を持っていますが、赤色のベクトルの方向と反対方向へ引っ張る姿勢をとっていません。赤色の方向へ、二人とも完全に持っていかれて、一人は宙に浮いてるという始末です。

 一定方向の反対の向きの力(反作用)がない以上、この方向への進む運動の力を感じないわけにはいきません。それもかなりの力であるのを感じます。では、その左奥の馬はどうかといえば…

 参考図ではちょっと基点を見つけるのが難儀でしょうが、その力は、右斜め上方向となります。では、手綱をもっている人は…両手をあげて上方向へと引っ張られているのがわかります。

 そんな、こじつけのベクトルの話をいつまでするのだ! という方もいらっしゃるかもしれません。でもまぁ、でもいろんな可能性を否定して蓋をしていては新しい事実には行き当たりませんから。それに、今回は「運動」「ダイナミック」という表現が中心なのですから、それに該当する要素を持ち出してきているので、もう少し付き合ってください。

 はっきりいって、この作品はベクトルを見出そうとしたら、さらに次もその次もベクトルを見つけられるのです。それも、そのベクトルの方向に進むと、次のベクトルが出てくる…。そして、この馬のベクトルを方向を示すものとしてに気に入らない人にとっては、馬を制御しようとしている人物に注目点を変更しても構いません。

 手綱を持つ人物たちは、明らかに馬からの力を受けています。そして馬の力の向きに関しては赤色の矢印のベクトルで依存がないはずです。そこで、ニュートンの登場です。ニュートンの運動の第2法則では、物体が力を受けたとき、力を受けている物体(今回の場合は手綱を持つ人物)は、その力の向きに対して速度の変化、加速度を生じさせるのです。その加速度の度合いは、力の大きさに比例するもので、物体の質量に反比例します。となれば、赤色の矢印の方向に加速度が生じていることになります。

 ボッチョーニがベクトルを意識したとはとてもいえませんが、そうしたことが連続して出てくるというのは、それに関連した意図が存在すると考える方が自然です。偶然が重なり続けるというのは、尋常な確率ではありません。偶然が3回重なると完全犯罪が成立する、ともいわれているように…。

 さぁ、お待ちどうさまです。そして、このベクトルの結論は、この作品では、たとえて言うなら(加速度を生み出す)道路標識であり、この作品には道が通っているような構図を作っている、といえば興味が湧くでしょうか?

 まず最初に視線が行くのが、中央の馬と人物。次にはその左やや奥にいる葦毛の馬と人物、そして、その奥にいる立ち上がった馬。そこから、右奥へ進んでやはり馬と、その奥にある工場やアパートメントのような建物、そして左奥の高台にある建物などでしょう。ベクトルの進む方向と視線の移動は大体一致します。

  

 ▲ 赤色の矢印が各馬に故意に当てはめたベクトル方向、青色の矢印が私たちの視線の動き

 青色のように視線は移動しないぞ! という人もいるでしょう。確かに、この青色は簡略化したものです。私自身も最初に中央の馬に目が行くといっているのですから。でも、その次はこの方向に進むのが最も妥当なのです。

 何故かって? それは青色の曲がりくねった矢印は、この画面上において矢印(標識)にそって奥が遠くなっていく、近くから順に遠ざかっていく距離の構図を作っているからです。

 これで何が言いたいのか? つまり、この作品は、力の満ちた(エネルギーの塊のように描かれた馬)騒動の中へ見る人を連れ込んでいく、ということなのです。遠くから騒乱の一場面を眺めている(もしくは眺めていた)という距離を持つのではなく、その場面に立ち合わせて、その騒乱のなかを通り抜ける体験をさせる(視線を一定の方向で左右に振り回す)ことによってダイナミックな感覚を助長させる、そのための仕掛けが、こうしたベクトルや左右に揺れながら奥へ進んでいく構図である、といえるでしょう。

 未来派絵画技術宣言のなかには、次のような一文もあります。

「キャンヴァスの上にわれわれが作り出す身振りは、もはや万有のダイナミズムの“瞬間”を切り取ったものではなく、それは明快にダイナミックな気分そのものなのだ」(「絵画技術宣言」 イタリア未来派と諸外国の未来派展の未来派事典/Germano Celant, Ester Coen, Enrico Crispolti, Gabriella Di Millia, Serge Fauchereau, Franco Maffina, Piero Pacini, Claudia Salaris, Gerald Silk, Mario Verdone /「メディアの献立」 『美術手帖1986年12月号 特集:未来派 疾風のアヴァンギャルド』に所収 p87)

 そして、そのことは、その場面をリアルタイムに共に共有するためのものでもあるのでしょう。この見る人の視線の動きを構図によって取り入む、というのは、ボッチョーニ作品のひとつの構成要素でもあるのです。

 その直後に描かれた《家をつらぬく街の喧噪》は、まさにその振り回しの塊のような作品です。

 手前上空から一気に下降して、その街の通りのカーブを曲がり、その先から一周回り込んだ後に、中央やや上の壁のような坂に上がった後、再度下って行って、画面左奥の街の通りへと抜けていく。導入部には馬が飛び出している不自然な空間のねじれがあり、そこに目がいかざるをえません。そして、そこから傾いた家々と通りのカーブが続き、その方向へ人々も向いているのですから、さらに進まざるをえません。そして二重のループ構造の道から視線は一周します。視線はその先の壁で行き止まりとなりますが、そこで、その壁のすぐ横にいる3人の人物を見出し、その人物たちが向いている街の奥へと進む…。道、建物、人物がすべて、そうした運動を誘うように構成されているのです。そして、私たちは、そこに下降、回転、上昇の視線運動を働らかされるのです。

 

構成要素・軌跡と位置的多視点の導入

 ボッチョーニの作品は、こうした視線の運動による場面への巻き込み、だけではありません。というよりも、ボッチョーニ自身の作風も、変化し続けます。

 次の要素として取り上げたいのは、軌道・軌跡です。これは漫画を読んだことのある人ならお馴染みのスピード・加速感を得るための斜めの直線の集合、といえばなんとなく雰囲気が掴めるかもしれません。

 ただし、この軌跡だけでは、対象が加速しているという印象を受けても、加速感を得るには少し弱い。そこで? ボッチョーニは軌跡にもう一つの要素の多視点(上下左右)と組み合わせることによって、運動の幅の感覚を広げています。

 例として取り上げるのは、1911年作の《精神(魂)の状態U――行く人びと》と《精神(魂)の状態T――別離》の2点。

 《精神の状態U−行く人びと》は、画面全体に右斜め上方から左下へと伸びる斜線で覆われています。これを凄い雨が降っている、と感じることはないでしょう。どちらかといえば、強い風圧、空気の流れ(流体力学の話はしません)を感じるでしょう(それはこの選の描き方にあるのですが、長くなるのでやめます。知りたい方は、参考図ではなく、ぜひ実際の図版を見てください)。

   

   ▲《精神の状態U―― 行く人びと》の概略参考図

 そして、この斜めの線にベクトルをつけるとしたら間違いなく、右斜め上方から左下。なぜなら、ここに登場する人物たちの後方に建物が見えます。それも、その建物たちは、建物より高い位置から見下ろした構図で描かれている。さて、ここで多視点の高さの要素が出てきました。これにより、空気の流れのベクトルの向きが自ずと決定されます。

 そして、ここに登場する人物たちの顔を見てみると、画面中央の人物は真横からの視点の顔と、斜め上方から見た顔の二つの視点から見たものが、混入されて出来上がっています。そう、写真でいうところのブレや時間差の連続写真に近い運動感覚がここにあらわれてきます。

 この要素を組み合わせで、この人物は、或る意味で、凄いスピードで空間を浮遊し上昇していく、もしくは時空の捻れや空気抵抗に抗いながら上昇していく(天界へ逝く?)のです。しかも、この人物たちは上半身のクローズアップで描かれているので、私たちとの距離も極めて近い…その人物の間近にいて、しかも、平行な位置関係で彼等を見ていることにより、私たちも一緒に移動して行くように誘い込むのです。

 もう一点の《精神(魂)の状態T−別離》は、運河の中を煙を上げて進む蒸気船が描かれています。しかし、この蒸気船には僅かな軌跡(白い線で蛇行するようなものが幾筋)しかありません。その理由はここでは蒸気船のスピード感は大きなテーマではないからです。

   

 ▲《精神の状態T――別離》

 この蒸気船のほぼ中央上部には、この蒸気船を真正面から見た視点の蒸気船が描かれています。そこにも、わずかな軌跡が白い線で描かれています。蒸気船がこちらへと向かって来ている、という感じでしょうか。

 この作品で、もっとも重要(テーマともいえるもの)なのは、この蒸気船の船先で切り開かれていく、海そのものものです。そして、その海が切り開かれて蒸気船の側面から後方へ流れていく軌跡が、数色の色彩で強く太く描かれているのです。そして、その海の波は、人物の形態を伴っている。

 蒸気船の船先で別れ別れになった波(人物)が、異なる方向の(その軌跡に導かれて)画面の奥へと流れていく。私たちの視線も同様の流れをもって、この作品を追い、別れ離れになっていく体験をするのです。

 

構成要素:フォルムの解体と時間的多視点の導入

 そして、ボッチョーニの作風はさらに変化します。

 1912年作《弾性》と1913年作《フットボール選手のダイナミスム》。《弾性》は、馬とそれに乗る人物が真横から描かれています。しかし、馬も人物もフォルムが解体され、それが再構築された、キュビスムにも近い描かれ方をしています。しかし、この作品には私感ですが……スピード・速度がまるで感じられません。

 軌跡の名残りは馬の足元にありますが変形したフォルムのようになっています。多視点の導入も、ここでは時間の直前と今との時間差に変化しています。表現の方法を変化させたということは、この作品ではテーマがそれ以前に取り上げたものと違う、ということになるでしょう。ここにあるのは、馬のスピードでも力でもなく、「運動のダイナミズム」と考えてみてください。

 馬の運動のダイナミズムを表現する方法として、馬のフォルムを解体したのです。それも、ある単位を基にして。その単位とは馬の筋肉、筋肉の個々の運動です。

 でも、筋肉を解剖学的に描いても、そこに力感は伴ったとしても運動しているようには感じません。解剖学的にいったら、同じイタリア・ルネサンスのミケランジェロやダ・ヴィンチがとっくに極めているのですから。そこで運動のダイナミックを現わすために、解剖学的な筋肉ではなく、収縮、膨張、伸縮する筋肉の対比をデフォルメしてひとつにまとめて配置することによって、筋肉のダイナミックな動きを持ち込んだわけです。わかりにくいですか? 強調されたでっぱりと、強調されたくぼみが隣接されていることを認識することで、その落差の大きさを感じますよね。その落差の大きさが筋肉の動きに移し変えられるといういい方をすればいいでしょうか。ちょっとだまし絵に近いかもしれません。

 実際の図版を見ていただければ、特に馬の臀部(尻)の部分には、その筋肉の収縮と膨張の組み合わせから発生するダイナミックな動きがわかるはずです。しかし残念ながら、この作品には、そうした筋肉のひとつひとつの動き(落差の大きさ)へと私たちを誘導する方向性(標識)が何もない。そのため、この作品がこれまであげてきた作品群より、平凡に映るのは仕方ないところでしょう。

 ボッチョーニも、この作品の効果が弱いということは自覚していたと推測します。何故なら、その翌年、この筋肉の動きのダイナミックさに再度挑戦した作品《フットボール選手のダイナミスム》が制作され、そこではこの作品の欠点が消されているからです。

 この作品にはフットボール選手の詳細な全体像は見出すことができません。フットボールをする選手の足と上半身、腕しかないと言っても過言ではないでしょう。つまり、そこでは《弾性》で方向性を得るのに邪魔となったさまざまな余分なものを排除した、ともいえます。そして、この作品は見事に回転している(フットボール選手の足の振り子にも近い運動)感覚を導きだしました。

 あるのは、個別の筋肉の単位になったフォルム。そのフォルムを《弾性》よりも多くの時間差の視点によって構成します。そして、この時間差の視点を、構図上で並列ではなく、膝をほぼ基点として左上方へ1/4円線上に積み重ねます。これで方向性は確定しました。これはベクトルというよりも、下のものより上に重ねられたものの方が、現在という時間に近いと感じる感覚を利用しているのでしょうが。

 私たちの視点は、画面中央にあるフットボール選手の足の筋肉に最初に導かれ、特定方向へ移動します。そこから先の方向性は、同じような様式で構成された上半身の腕の形態の移動とともにさらに同方向へ1/4円状へ進みます。そこから先は、ある意味で軌道の名残ともいえるような、光(スポットライトのような)の強い黄色の先へ下降する。もう3/4円状に回転した視線は、惰性のまま一周するかもしれません。しなくとも充分に回転運動を体感するのではないでしょうか。形態的には風車のようなものといえば、わかりやすいでしょうか。

 私たちの視線は個別の筋肉に導かれて回転運動に近い移動をし、フットボール選手の筋肉の個別のダイナミックな運動の気分をそこで感じるのです。

 ボッチョーニの最後の作品群のひとつといえるのが、1915年作《槍騎兵の突撃》。そこには馬の筋肉のフォルムが的確に構成され、飛び上がる馬のベクトルと、馬に乗った騎兵の姿勢と槍の角度による下降の方向性、その槍と馬の先に待ち受ける兵士のライフル銃が軌跡的な役割を果し、多数の騎兵による擬似の時間的多視点、待ち受ける兵士たちが画面中央付近まで回りこんで配置され、かつそこでは腕くらいまでしか見えないという距離感の近さ(私たちの位置は待ち受ける兵士の最前列にいる)により臨場感(遠方は描かれず、銃の発砲の煙や光がまたたいている)など、それまでの構成要素を多々持ち込んだ作品で、その画題とともに高揚感をももたらします。

 

 未来派が追及した、スピード、速度、それによって変容する現実。顕われては消えるダイナミズム。それは、現実はすべて動きという運動の変化の中にあり、私たちが日常生活の中では忘れがちな、生きている限り運動し続けるという生の燃焼、生きていることのダイナミズム、という感覚を現前に提示してくれるのです。

 ※なお、今回文中で取り上げた作品の中で、現在一般的に書店販売されている書籍の中で見られる図版は以下のものが代表的なものです。ボッチョーニの作品を見たことのない方は、ぜひ一度ご覧になってください。

 《決起する都市》《弾性》……『20世紀の美術』 監修:末永照和 発行:美術出版社

 《精神(魂)の状態T――別離》《弾性》……『西洋絵画史 Who's Who』 監修:諸川春樹 発行:美術出版社

 《フットボールの選手のダイナミスム》《決起する都市(たちあがる都市)》……『西洋美術館』 発行:小学館

 (文中の太字は筆者の私、トビー高橋の独自の判断によって行ったものです)

 

 

 

  

 

 

 

green07_next.gif ボッチョーニの「美術家DATA」

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