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美術家の言葉 |
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■ノルデが絵画表現において最も重視していたものを表すものとして… 「絵を描く時に私が常に望んだことは、画家である自分の手で色彩がカンヴァスの上に、ちょうど(……)陽光のもとで花が開き、咲くように広がってゆくことである。(……)私が愛するのは、独自の生命をもった色彩であり、泣き、笑い、夢であり幸福であり、熱く神聖であり、恋の歌であり、エロスであり、荘厳な合唱であるような色彩である」 ※8 「黄色は、幸福を描くことができる。同様に、苦痛をも…。すべての絵具は、その魂を内に秘めており、私を幸福に、あるいは不愉快にし、私を興奮させる」 ※1 「色彩は私の音符であり、私はそれを用いて、互いに協和し合う響き、対立し合う響き、和音をつくりだすのだ」 ※2
■自作の解説となるものとして(表現要素として取り入れていたこと)… 「二元性(ツヴァイハイト)は、私の絵画においても版画においても、大きな位置を占めていた。協力あるいは対立、男と女、喜びと悲しみ、神性と魔性。色彩もまた、互いに対立している。寒と暖、明と暗、鈍い色と鋭い色」 ※4
■時代とともに生きる現代画家として(当時の美術途上国ドイツで生まれたことを含め)ノルデ自身が自ら“背負った”ものとして… 「ベルリン・ゼツェッシオーンは、その設立以来、その展覧会を通して、フランスの画家たちが全く偉大であること、そして彼ら自身は半ば偉大であることを、常に強調しています。そのことは当たっています。しかし、残念なことに、その結果、独自性が失われ、彼らの後継者たちは、ひとつの偉大な先例から他の先例へと自信なくふらつく、という状況が生じたのです。 もし我々の美術がフランス美術と同じほど、あるいはそれ以上に重要なものになる時が来るとすれば、それは、特別なことを望むというのではなく、我々の美術が完全にドイツ的なものになった時でありましょう。…ゼツェッシオーンのあとに来る世代、フィネンが誤解の故に認めなかった世代は、その大きな課題の成就が自らに課せられているということを知っています」 (1911年9月14日付 書簡 ノルデ『書簡集』P.78-79) ※6
■ブリュッケを1年で脱退した理由、自負を表すものとして… 「おそらく避けがたいであろう、人間的、芸術的な軋轢を負うのは、私には無理であった。それに、この若い画家たちの間に次第に明らかとなってきた一様性も、私は好まなかった。彼らの作品は、見分けのつかないくらい似ていた。私は一人で自分の道へと戻って行った」 ※5 「私は、芸術的に自由でなければならなかった。鋼鉄のごとく厳しいアッシリアの支配者のように自らの前に神を持つのではなく、自らの内に神を持たなければならなかった。キリストの愛のように熱く、神聖に」 ※3
■ナチスから「廃頽芸術」とされ、制作禁止令で監視されるという逆境を超えられた原動力ともなった思考を表すものとして… 「それが心の内のものであれ、生活上のものであれ、不幸を知らぬ者は、実りある創作を行なうことはできないのだ」 ※7
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<エミール・ノルデ関連の書籍>
美術家の言葉の引用先、流用先 ※1〜4 マルティン・ウルバン(ノルデ財団理事長,ノルデ美術館館長) エミール・ノルデ−−展覧会への序文 『エミール・ノルデ展』 監修:国立西洋美術館 発行:東京新聞 1981
※5〜7 有川治男 「ノルデとその芸術的環境−−ドイツ的なもの」 『エミール・ノルデ展』 監修:国立西洋美術館 発行:東京新聞 1981 ※8 千足伸行 「近代絵画の色彩:ドラクロワからフォーヴィスム、表現主義へ」 『メルツバッハー・コレクション展』 監修:千足伸行 発行:東京新聞 2001 p31 |
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