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美術家の言葉 |
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■ドガの絵画に対する考え方、制作に対するアプローチの仕方を現わすものとして… 「目に見えるものを模写することは大いに結構だが、記憶のなかに依然として見えるものだけを描くのはいっそう好ましい。これは、一種の変形であり、そこで、想像力が記憶と共同するのだ。それから感銘を受けたもの、いわば本質的なものだけを再現すればよい。そうすれば、記憶と空想は自然の圧制から自由になるのだ」 ※7 (アイルランドの作家ジョージ・ムーアに語ったもの)「私の芸術以上に自然でないものはない。私が行っていることは、偉大な巨匠についての熟慮と研究の結果である。霊感、自然さ、気質について、私は何も知らないのだ」 ※6 「それゆえ、決して自然とわたりあわないことがきわめて肝要なのだ。自然の偉大な面と線に正面から挑むには、真の勇気が必要であり、細部と事物の一面でそれを行うには、臆病さが必要なのだ」 (1856年、自身の手帖に記した言葉) ※1 「人は芸術を愛し、かつ自分が親しんだ事物にだけ芸術を与えるのだ。新しいものはあなたの興味を引き、次にあなたを退屈させる」 (1872年にアンリ・ルアールに宛てた手紙の中から) ※3
■ドガが市井の人々の生活のある側面を取り上げ続けた理由のひとつとして… 「この人々の世界ではすべてが美しい。しかし、私のような明らかなパリジャンには、1人の腕もあらわなパリの洗濯娘はそれだけで価値があるのだ」 (1872年、ニューオリンズからの手紙のなかで)※10 (ゴンクール兄弟が聞いたことによる)「現代の主題に夢中になっている。現代生活を写すことで、その核心を捉えることができる」 ※12
■ドガが踊り子たちを何度も取り上げた理由を現わすものとして… 「私の作品ほど作為的な作品はない。私の作品は思考と研究の成果である。私はインスピレーション、自発性、気分などについては何も知らない。同じ対象を10回も100回も繰り返し描くべきだ。美術にあっては、運動さえ偶然の出来事とみてはならない」 (Lassaigne,1988,p.13) ※11
■ドガ自身が考えていた自作の裸婦像とそれまでの裸婦像の違いともいうべきもの… 「従来、ヌードは常に、観衆を前提としたポーズで描かれてきている。しかし、私の描くこれらの女たちは、偽りのない、単純な面々で、自分たちの身体的な条件にわれを忘れる以外、他のことに頓着しないのだ…あたかも鍵穴からのぞくようなものだ」 ※8
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<エドガー・ドガ関連の書籍>
美術家の言葉の引用先・流用先文献 ※1,3,5〜7,9,10 「アート・ライブラリー ドガ」著:キース・ロバーツ 訳:村田宏 発行:西村書店 1999年 ※11 ※5,6 「ロー・コレクション 西洋絵画500年の巨匠たち展」 監修:マルク・レステリーニ、千足伸行 発行:アート・ライフ 1999 p164 ※12 「オルセー美術館展1999 19世紀の夢と現実」 カタログ編集:高橋明也 データ編集:伊藤香織、長能美香 発行:日本経済新聞社 1999
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