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美術家の言葉 |
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■今ではダニエル・ビュラン作品の“代名詞”といわれるようになった「ストライプ」の模様を用いることの意味として… 「ぼく自身にとってはストライプを使うことは論理的な帰結だった。……(中略)……しかし初めてのストライプ作品はそれ以前の仕事の流れから論理的に導かれる次のステップだったし、同時にとてもラジカルなものでもあった。個性の完全な否定という意味では、有効性が高いのは疑いようがないからね。ストライプを続けることになった理由はそこにありそうだね。 ぼくはストライプを手段(ツール)として用いているのであって、ミニマル・アートの作品を描いているのとは違う」 ※1
■“ストライプ”がもたらすものについてのビュラン自身の見解として… 「だからストライプについて話すとすれば、それが完璧だとか永遠だとかということではなくて、さまざまな質をもつているということなんだ。まずリズムがある。ひじょうに安定したミニマルなりズムだね。それからもしストライプで埋め尽くした部屋からその一部を切り取り、それを別の部屋で見せれば、誰でも何が起こったかをすぐに理解できる。……(中略)……それが、ストライプではなくて、たとえば黒いものかなんだったらそうはいかない。物差しで測ってみたりすることが必要だ。だからもし作家がそうだというのだったら、作家の言葉を信ずるしかない。ところがストライプの場合は、信じるべきはストライプを勘定した自分自身ということになる。これもストライプの視覚的な質として興味のあるところだね。……(中略)……状況をより明らかにするという特質がある」 ※2
■ビュランが自身の作品はミニマルでもペインティングでもないと称することの背景にあるもののひとつとして… 「絵を描くことは、花、女、エロティシズム、日常の環境、芸術、ダダイズム、精神分析、ヴェトナム戦争に審美的な価値を付与することだ。われわれは絵描きではない」(1967年の新進絵画展で行ったデモンストレーションともいうべきものの中で、記したことのひとつ)※3
■美術館の内とその外や画廊内と野外での制作をバランス良く行っている“行為”自体が、ビュランにとってある意図があるということを表明するもの… 「1970年の『東京ビエンナーレ』でも戸外に作品を作ったのはこういう理由からだった。美術館の壁に紙を貼り、地下鉄にも紙を貼った。まったく同じことだ。もし美術館の壁に貼られた紙が美術なら、地下鉄のほうはなんなんのか。もし地下鉄に貼られた紙きれが落書きで無意味なものだったら、美術館の壁のほうはなんだというのか。こうした対比を頭に入れてみれば、答えは得られないかもしれないが、問題はどこにあるのかくらいは少しわかりやすくなってくるだろう」 ※4
■ダニエル・ビュランの作品の在り方について自身の解説ともなるものとして… 「とにかく一般の絵画とか彫刻というものは、それ自身がなんらかの表現になっているのに対して、ぼくの作品はそのもの自体としての表現ということは考えていない。作品の置かれた環境に存在する種々の要素を作品にとりこむのがぼくの作品のあり方だ。……(中略)……普通の絵はそれ自体で完結するものだ。周囲の世界がどうあろうと関係がない。そういった視点はまったくもっていないわけだ。ぼくはそうした考えをとらない。外の世界も作品内の世界と同じくらいには重要だと思うからね」※5
■ビュランが上記のような作品にたどり着いた、根本的な考え方のひとつとして… 「あらゆる行為は政治的で、意識するしないにかかわらず、作品の発表もその例外ではない。どんな制作も、どんな芸術作品も政治的な意味合いがある。スペース、それに分析すべき設問の優先順位の考察が欠如しているため、目の前の命題の社会学的な側面が看過されている。それをわれわれは余儀なくされている」 ※6
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<ダニエル・ビュラン関連の書籍>
美術家の言葉の引用先、流用先原典 ※1 「ダニエル・ビュラン 作品は見る人の目を押し開く」 インタビュー:美術手帖編集部 訳:木下哲夫 『美術手帖1988年7月号』 発行:美術出版社 p121 ※2 同上p122〜123 ※4同上p126 ※5同上p127 ※3 コンセプチュアル・アート 岩波世界の美術 著:トニー・ゴドフリー 訳:木幡和枝 発行:岩波書店 2001 p175 ※6 同上p208 |
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