James M. Whistler


  

  ジェームス・マクニール・ホイッスラー


  

  

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 経歴

 1834 アメリカ合衆国マサチューセッツ州ローウェルで鉄道技師の家庭に生まれる。幼少の頃、鉄道敷設のためにロシアに赴いていた父の元で過す。父の死去とともにアメリカに帰国。ウエスト・ポイント陸軍士官学校に入学するも退学し、沿岸測地測量所の製図部に勤務する

1855 画家を目指して渡仏。C.グレイルのアトリエで学ぶ

1858 銅版画集『フレンチ・セット』を出版。ファンタン=ラトゥールを知り合い、紹介でクールベなどと知り合う

1859 ロンドンへ移住

1860 ロイヤル・アカデミー展に出品

1862 ロイヤル・アカデミー展で『ホワイト・ガール』が落選。同作をモーガンズ画廊で展示。ラファエル前派のロセッティ、バーン=ジョーンズらと知り合う

1863 落選展に『ホワイト・ガール』が展示される。同展でマネの『草上の昼食』と話題を二分したといわれる。チェルシーのロセッティ邸の近くに転居

この頃より以前から興味を持っていた東洋工芸品の蒐集を行い、作品にも登場させていく(ロセッティなどのラファエル前派がこうした東洋陶器などを蒐集しており、その影響にもよる)

1865 ロイヤル・アカデミー展に『リトル・ホワイト・ガール』を出品。モデルは前回の類似タイトル作と同様、愛人のジョー・ヒファーナン

1867 音楽的なタイトルをつけた作品をロイヤル・アカデミーに出品(『白のシンフォニーNo.3)』

1872 タイトルに“ノクターン”とつけたシリーズ作品をダドリー・ギャラリー展に出品

1873 パリのデュラン=リュエル画廊で個展

1874 フレミッシュ・ギャラリーで100点あまりの作品で個展

1876 F・R・レイランドのロンドン邸の<孔雀の間>の装飾を手掛ける

1877 グローヴナ・ギャラリー開館展に出品。『黒と金色のノクターン−−落下する花火』が、その抽象的な様式と、高価な価格から物議をかもす。誹謗中傷したJ・ラスキンを名誉毀損で告訴

1878 訴訟に勝訴するも、被害額はないも同然で訴訟負担も免ぜられず、裁判費用によって財政難に

1879 破産宣告をし、イタリアに滞在

1881 ファイン・アート・ソサエティでヴェネツッア・パステル展を開催

1883 上記画廊でエッチング展。パリのサロンで『母の肖像』が三等賞受賞

1884 ダウズウェル画廊で個展。英国美術家協会会員に選出

1886 上記画廊でノーツ−ハーモニー−ノクターンズと銘打った個展開催。英国美術家協会会長に就任

1887 パリのジョルジュ・プティ画廊での国際絵画展に50作品を出品

1888 ビアトリスと結婚

1889 パリ万博に『黒のアレインジメント:黄色の半長靴をはいた婦人』『肌色と緑色のバリエーション−−バルコニー』を出品し金賞を受賞

1892 フランス政府よりレジョン・ドヌール四等勲章を受ける。ロンドンのグーピル画廊で回顧展。パリに移住

1898 国際彫刻家・画家・版画家協会会長に就任

1900 パリ万博に『真珠母色と銀色:アンダルシアの女』などを出品し大賞受賞

1903 死去

1904年にボストンで回顧展、翌年にはロンドンとパリで回顧展が開催される

 

 

 

  

 

 

 東洋陶器や浮世絵の装飾性を好んだホイッスラー。作品の中にも着物を着た女性、うちわ、とっくりやしゃみせんといった小道具のほか、屏風、浮世絵も登場します。とくに浮世絵は広重の『六十余州名所図絵』の中の『伊豫西條』『大隈さくらしま』『駿河三保のまつ原』『越中富士船橋』など、作品がはっきりわかるほどに…

 ただし、自身の絵画の装飾性?は、平面性ではなく、あくまでも色彩。

 肖像画を描いても、風景を描いても、求めたのは色彩の効果。婦人の服装の色や顔色と背景の色との対比、風景における背景となる時間帯の空気の色と人口的な照明や物の色。

 物語やテーマといった意味づける主題から離れて、色彩の効果を中心にした制作態度は当時の前衛的活動であり、印象派のモネにより近いものです

  

 

ホイッスラー関連の書籍

 

 参考文献

ホイッスラー年譜 谷田博幸 『朝日美術館 ホイッスラー』 発行:朝日新聞社 1997