Amedeo Modigliani


  

  アメデオ・モディリアーニ


  

  

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美術家DATA エコール・ド・パリ目次

美術家の言葉 目次

ism(美術運動)の証言 目次

絵画の制作技法・構造と効果 目次

経歴

 1884 イタリアの地中海に面したリボルノで実業家の家庭に生まれる。しかし、生まれた直後に父の事業が失敗し破産。

幼少の頃から体が弱く、絵を描いていたが、1900には結核となり、学業を放棄。

1902 フィレンチェ、ヴェネツッアで絵を学ぶ

1906 肖像画家を目指して渡仏。パリへ。引っ込み思案の性格を克服するかのようにアルコールやハッシシを使用。

1907 セザンヌの回顧展が開催。その影響を受けたといわれる。もちろん、アフリカ美術からも

1908 アンデパンダン展に出品

1909〜14 彫刻制作が中心。ブランクーシのアトリエの隣で制作

1912 サロン・ドートンヌに石彫8点を出品

1914 南アフリカのジャーナリストのベアトリス・ヘイスティングスと同棲を始めるが、その生活は荒れたものとなる。

ベアトリクスはアル中に、モディリアーニは麻薬に溺れ、1916に破綻。

1915頃から大戦の中の貧窮から、絵画へ戻る。それまでの彫刻は、地下鉄の枕木などを盗んできた石に行っていたともいわれる。後に健康を害して彫刻をあきらめる

画商ポール・ギョームが、作品を買い上げ、アトリエも貸し与える。しかし、性格的にもそりが合わず、ポール・ギョームは手をひく。

1916 ズボロスキーがモジィリアーニの画商となる。

1917 画学生のジャンヌ・エビュテルヌを知り、同棲を始める。彼女の肖像画は数多く制作されている。

同年、ベルト・ウェイル画廊でズボロスキーによって、モディリアーニ初めての個展を開くが、裸婦像が警察を刺激し、オープニングの日に打ち切りに。

1918 スーチンとともに画商のはからいで南仏へ旅行。この時、他では描かなかった風景画を描く。

1920 普段の不摂生(深酔い)と従来の持病より肺炎となり死去。モジィリアーニの第二子を身ごもっていたジャンヌもアパートより投身自殺する。

 

 

 

  

 

 <国内で見られる主な絵画・所蔵品>

●大阪市立近代美術館

制作年

髪をほどいた横たわる裸婦

1917

●名古屋市美術館

 

おさげ髪の少女

1918頃

●長島美術館

 

赤毛の女

1918

●大原美術館

 

ジャンヌ・エビュテルヌの肖像

1918

●ひろしま美術館

 

セルジエ氏の肖像

1919

 モジィリアーニの人物画は、モデルを自分がどう見たかを的確に現しているとよくいわれます

その理由として 虚ろな目やまがった鼻、などもありますが、それはアフリカ美術の影響も受けたモジィリアーニ独自のキャラクターであり、虚ろな目などは、なにもブルジョワジーにだけではなく、少年や裸婦や内縁の妻ジャンヌにも描かれています。

私は、そうした印象を与えるのは(普段の言動を無視して絵を見たときに)、モデルとの距離(構図)の取り方も大きな理由だと感じます。

モジィリアーニの人物たちは、ほとんどクローズ・アップの視点で捉えられ、体の一部分または大部分がキャンバスの外にはみ出しています。

肖像画として上半身が安定した構図として切り取られるのではなく、モデルによって、首のすぐ下であったり、斜めから見上げるようだったりと、異なる距離、今でいうプライベート写真のような、ざっくばらんな距離で構図をとることによって、モデルに対する意図が見え隠れするようになっているのを感じます

 

  

 

 モディリアーニ関連の書籍

 

 

 参考文献

 「週刊グレート・アーティスト14 モディリアーニ」監修:中山公男 監修補佐:湊 典子 発行:同朋舎 1990

「キキとモンパルナス展カタログ」 監修:マルク・レステリーニ、ピリー・クリューバー、ジュリー・マーティン 編集・発行:アート・ライフ 1998

「パリのカフェと画家たち」展 発行・読売新聞社 1999

「パリ・オランジェリー美術館展」発行・NTV 1998