Mary Cassatt


  

  メアリー・カサット


  

  

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美術家DATA 印象派目次

美術家の言葉 目次

ism(美術運動)の証言 目次

絵画の制作技法・構造と効果 目次

経歴

 1844 ペンシルヴェニア州の現ピッツバーグの銀行家の家庭に生まれる。ペンシルヴェニア州美術アカデミーに通うが、後に授業に出ず独学する。

1865 パリへ行き、短期間ではあるがシャルル・シャプランやジャン・レオン・ジェロームに学ぶ。その後、風俗画を制作し始める。

1868 パリのサロンで入選「マンドリン奏者」

1870 イタリア・ローマへ。普仏戦争により帰国。翌年ヨーロッパに戻る。

1872 イタリアのパルマに滞在。「カーニバル」がパリのサロンで入選。また、スペインのマドリードなどに旅行し、過去の巨匠たちの模写を続ける。

1874 「イーダ」がサロンで展示され、ドガが賞賛。ドガと知り合う。その影響下のもとパステル画も描きはじめる

1879 第4回印象派展に11点の作品を出品。雑誌「昼と夜誌」のための版画を制作

1881 前年の第5回、および当年の第6回印象派展に出品。画商ポール・デュラン=リュエルが作品を扱うようになる。

 その後、妹の死、母の健康がすぐれず制作をほとんど行わず

1886 第8回最後の印象派展に出品。NYの画廊での印象派展にも出品。これはカサットがアメリカのコレクターなどを紹介して実現し、リュエルを助けたものでもある

1890 多色刷り版画の制作を始める(日本の浮世絵などの美術展を見て、多色刷り版画の魅力をより実感する)

1891 デュラン=リュエル画廊で初めての個展

1892 シカゴ万博の女性館のための壁画制作

1893 デュラン=リュエル画廊で大規模個展

1895 デュラン=リュエルのNY画廊で、アメリカでの大規模個展

1904 フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章騎士章を授与

 その後、アメリカ旅行中に病となり、エジプトで休養中に弟が死去。また1915には視力を失い、制作できなくなる。1914には故郷ペンシルヴェニアの美術アカデミーより名誉金メダルが贈られる。

1926 死去

 

 

 

  

 

<国内で見られる作品・所蔵品>

●東京富士美術館

制作年

モレル・ダルルー伯爵夫人と息子/パステル・紙

1906頃

扇を持つバラ色の服の女/パステル・紙

1889頃

●村内美術館

 

赤い帽子の少女

1881

●山形美術館 吉野石膏コレクション

 

マリー=ルイーズ・デュラン=リュエルの肖像/パステル・紙

1911

 カサットといえば、母性的女性像や母と子を主題とした作品が著名ですね。

当時においては、現代の日常風俗を主題としていたことが“新しい”ものでもありました。印象派展にも数多く出品していますが、ドガと同様に先進的な手法としての本質的な印象派とは異なっています

 構図なども過去の名作の遺産から持ち出された安定したものであり、それが母と子の普遍的な愛情を感じさせる一因でもあるでしょうし、画風としては伝統的な画家でもあるのでしょう。

 アメリカのコレクターに印象派の作品の購入を勧め、コーディネイトしたことは印象派にとっての大きな貢献であったようです

  

 

 メアリー・カサット関連の書籍

 

 

 

参考文献

「岩波 世界の巨匠 カサット」著:アリソン・エフェニー 訳:松本透 発行:岩波書店 1996

「東京富士美術館所蔵 名品選集U 西洋絵画」発行:東京富士美術館 1991