|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Wassily Kandinsky |
|
ヴァシリー・カンディンスキー |
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||
|
経歴 1866 モスクワで茶貿易商の家庭に生まれる。5歳の時に両親が離婚。幼少の頃はピアノやチェロのレッスンを受ける。モスクワ大学で国民経済学と法律学を学ぶ 1892 法律学の国家試験に合格。シェミアキンと結婚 1895 モスクワのクスヴェレフ印刷工場で芸術主任として勤務 1896 印象派の展覧会をモスクワで見る。大学教授としての招聘を断り、芸術家としての経歴を選択し、ミュンヘンに移住。 1900 ミュンヘン・アカデミーで学ぶ。パウル・クレーが同級。 1901 芸術家グループ「ファランクス」創設。ベルリン分離派展に出品。以後、1911まで同展に出品 1904 「ファランクス」解散。妻と別居.オランダ、ベルリン、パリ、チェニスなどを旅行。パリのサロン・ドートンヌに出品(1910まで出品) 1905 ドイツ芸術家同盟に加入 1906 フランスで一時制作 1909 「ミュンヘン新美術家協会」設立。会長に選出。ミュンヘン新美術家協会第1回展開催。 即興シリーズの制作開始。1914まで35点。現実から自由になるために?タイトルは即興と番号で現す 1910 フランツ・マルク、マッケらと知り合う。 1911 離婚。フランツ・マルクと「青騎士編集部」を創立。マルク、クービンらと「ミュンヘン新美術協会」離脱。ミュンヘンのタンハウザー画廊で「青騎士編集部」主催第1回展開催 1912 著書『芸術における精神的なものについて』発行。年刊誌『青騎士』発行。「青騎士編集部」第2回展 1913 アメリカでヨーロッパ最新美術を紹介する「アーモリー・ショー」に参加 1914 『青騎士』第2号発行。第一次世界大戦となり、スイスとモスクワへ 1916 ストックホルムのグメソン画廊で展覧会 1917 モスクワでアンドレエフスキーと結婚 1918 教育人民委員会における造形美術部の一員となり、国立高等芸術・工芸院の教授に 1919 芸術評議会の作品購入委員会を主宰し、ソヴィエト内で数々の新美術館を創立 1920 モスクワ大学芸術学教授に任命 1921 前年に共同創立した芸術家文化研究所から手をひく。すでにカンディンスキーの絵画は国内でも批判が多くなり、活動も制限せざるをえなかった 1922 バウハウスでの教授職を引き受けるべくワイマールへ移住 1924 クレー、ファイニンガー、屋ウレンスキーらと「青の四人」を結成。ワイマールのバウハウス解散 1926 デッサウのマイスターハウスに転居。クレー一家も同所に転居 1928 ドイツ国籍取得。 1929 パリでの初個展。 1933 デッサウのバウハウスの閉鎖。パリへ転居 1937 パリのジュ・ド・ポーム美術館での「独立国際芸術の起源と発展」展に出品。ドイツで自作57点が、<頽廃芸術>として押収される 1939 フランス国籍取得 1944 死去
|
|
<国内で見られる主な絵画・所蔵品>
<国内で見られる主な版画作品>
パリに移住した晩年、作品を爆発的に制作。すでに自由に操られるようになった<自身が生み出した“アイコン”記号が乱舞! ただし、それを音楽的というかは? 音楽的領域を引き合いに出して絵画理論を説明したりしているために、そのことがイメージとして先行しているかもしれません。 記号的なフォルムは、具象を抽象に移行させていく中で形成されたものであるため、どうしても元となった形態の名残りがあります。そのため、フォルムにリズムを感じようとしても、どうしても元の形にとらわれる“不協和音”にぶつかってしまって、リズムがとれないと見るのは私だけでしょうか? 特に生命体(有機)を感じさせるフォルムは、いわゆる音楽的な次元とは疎遠のはずでは? 生命の躍動を表すのに、フォルムの構成で行うのではなく、ある“場面”のイメージを、抽象に移行していったことも、これには大きく関わっているのでしょう。 または、カンディンスキーの目指した“絵画のハーモニー”が、矛盾や対立であるために(弁証法?)、その概念に殉じたせいかもしれません。
|
|
より理解のための <カンディンスキー関連の書籍>
参考文献 『パルコ美術新書 カンディンスキー』 ペーター・アンセルム・リードル著 金田晉・森秀樹 訳 発行:PARCO出版 1996 「La Collection ポンピドー・コレクション展カタログ」編集発行:東京都現代美術館、朝日新聞社、テレビ朝日 1997
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||