Iiya Kabakv


  

  イリヤ・カバコフ


  

  

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美術家DATAインスタレーション周辺目次

美術家の言葉 目次

ism(美術運動)の証言 目次

絵画の制作技法・構造と効果 目次

経歴

 1933 ソヴィエト連邦のドニエプロペトロスク市に生まれる。父と母はともにユダヤ人であるが不仲で、幼少の頃に父は出て行く。母は半端仕事で生計を立てる。

レニングラード美術学校に入学。ユダヤ人らしい名前でないことから、当局が見落として合格。しかし、グラフィックアートの学科に。母もその地についていくが、当時の情勢として登録制であり住むところがなく、トイレを改造した物置小屋に寝泊りしていたこともあり、それが後のドクメンタのインスタレーションにも現れる。

1955 在学中から指導教官を拝み倒して絵本の挿絵のアルバイトを行う。卒業後はそのまま、挿絵の画家となる。

1959 芸術家同盟への入会が許され、さまざまな権利を得る

1960 芸術家代表団の一員として東ドイツへ。初めての国外であり、西側の空気に魅了される。その後、アトリエ(じめじめした地下室)を共同で借りて制作をはじめる

1974 『十の人物』シリーズのすべての『アルバム』が完成。野外展覧会への誘いを受けるが、参加せず。当日、観客として見にいくが、展覧会は当局のブルドーザーと放水車で中止させられる。西側から訪ねてきた人に絵画を進呈する

1982 絵画への興味がうすれ、ゴミなどのインスタレーション制作をはじめる

当時、芸術家たちはつきつぎと国外へ亡命していく

1985 ベルンでカバコフの美術展が開催。作品を発送する。翌年にかけてデュッセンドルフ、パリへ巡回。カバコフ不在のまま。

国内での改革ペレストロイカがはじまる

1987 ウィーンで画廊をもつピーター・パケッシュが訪ね、3ヶ月間の滞在給費の申し出と美術展開催の計画を提示。「上級機関」が許可。ウィーンへ

1988 母の死。一時帰国。その後、パリへ。ヴェネツッア・ビエンナーレに参加

1889 ギャルリ・ド・フランスで美術展。ロンドンICA(現代美術協会)で『十の人物』再現。ベルリンでDAAD(デーアーアーデー)より給費を受ける。DAADで美術展

1990 フィラデルティアICA、ワシントンのハーシュホン美術館、ポンピドゥーセンター、ロンドン・デリーほかで作品発表。ベルリンの壁が崩壊し、壁の崩壊を記念する美術展

1991 来日。軽井沢のセゾン現代美術館で『共同キッチン』、パリのアートフェアFIACにも展示。カーネギー美術館での展示、『赤い車輌』『絵のなかに飛び込んだ男』『精神病院』などを発表

NY近代美術館で池の上を渡す橋を再現した《橋》を発表

1992 NYに転居。ケルン・クンストフェラインで『ハエの生活』、ドクメンタ\で『トイレ』を発表。

1993 ステデリイク美術館で『大資料』展。フランクフルトで高校生と『からっぽの美術館』制作。NYジューイッシュ美術館で展示。ベネツッア・ビエンナーレに参加。ロシア館で制作

1997 ミュンスター彫刻プロジェクト’97に参加。電波塔の上に、アンテナを使用して自作の詩を文字にした作品を発表

1998 『わが人生の舟』発表

1999 水戸芸術美術館で展覧会

 

※当略歴は、インスタレーション『わが人生の舟』のテキストに基づいたものです

 

 

 

  

 

 ※ 国内における作品の所蔵先は(私には)確認できておりません

 旧ソビエトの社会主義システムの環境の中で多くの時間を費やしてしてきたアーティストですから、“社会システム”について非常に鋭利に表出してくれます。

我々がロシア(今のロシアでは事情が異なりますが)でわざわざ生活しなくとも、その社会が持っているシステムと“価値”、歴史を見せてくれます。

現在では、社会主義システムやその歴史から離れた作品が中心ですが、カバコフの活動は、私たちに新しい提案、問題を提起し、いかに生きるかの思想、物の見方のひとつを教えてくれます。

 

  

 

 より理解のための

green07_next.gif イリヤ・カバコフの「美術家の言葉」

イリヤ・カバコフ関連の書籍

 

 

 参考文献

『イリヤ・カバコフの芸術』 編著:沼野充義 発行:五柳書院 1999

「美術手帖1997年11月号 特集 インスタレーション 表現空間の変遷」 発行:美術出版社

「美術手帖1997年9月号 特集 現代アートの祭典 国際美術展リポート’97」 発行:美術出版社