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Arshile Gorky |
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アーシル・ゴーキー |
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| 経歴 1904 アルメニア東部コーコム村で農業や大工を営む家庭に生まれる。トルコ軍の兵役を逃れるため父親は家族を残してアメリカへ トルコ軍の砲撃を避けるためにフカス・アルメニアのエレヴァンに避難。大工、印刷を学ぶ。母が病気になり飢えのなかで死去。 1920 アメリカへ脱出。その後、父親のもとに行き同居。父は再婚し不仲 1922 ボストンのニュー・スクール・オブ・デザインで学ぶ。その後、教える立場に 1924 作品に初めて「アーシル・ゴーキー」という名で著名する。アメリカ人に少しでも馴染みのあるよう、ロシア系の名前をつけたといわれる。本名はヴォスダニック・マヌーク・アドイアン。セザンヌの影響の濃い作品群 1925 グランド・セントラル美術学校に入学。写生クラスのインストラクターとして教える。31年まで。アメリカではまだあまり紹介されていない海外のモダニズム作品を論じ学生から好評を得る この間に、ウィレム・デ・クーニングやスチュアート・デイヴィスと出会う 1930頃 キュビズムの影響の強い作風に変化 1933 公共事業芸術計画に参加 1934 メロン画廊で初めての個展 1935 公共事業促進局/連邦美術計画(WPA/FAP)の壁画部門で制作。ニュージャージー州のニューアーク空港に設置される。フィラデルフィアのボイヤー画廊で抽象的作品の個展 1937 作品『絵画』をホイットニー美術館が買い上げる。この頃よりシュルレアリスム的なフォルムの作品になる 1939 万博の壁画を手掛ける。経済的にはよくなるが、不安定のため、グランド・セントラル美術学校で教鞭をとる 1941 WPA/FAPを辞職。アグネス・マグルーダ、イサム・ノグチとその妹とともにサンフランシスコへ車で旅行。ここで見た自然が、故郷のアルメニア風景をも思い起こさせ、自然を対象とした制作が始まることになる。 作品にも次の独自の展開の契機となる。アグネスと結婚 1942-44 アグネスの両親の農場クルークド・ラン農場などに長期滞在して制作。44年にアンドレ・ブルトンと出会う。即興的で絵具を薄めた淡彩による抽象的なフォルムの作品を制作。独自の画業に到達 1946 前年に移ったコネティカット州の納屋のアトリエが火事となり、30点の絵画を喪失。癌の手術。数多くの素描を制作。 近代美術館の「14人のアメリカ人展」に作品が選ばれる 1947 レヴィ画廊で彩色素描展。しかし、相変わらず評価は高まらない 1948 ホイットニー美術館年次展に『カレンダース』が選ばれ出品 自動車事故で利き腕が麻痺。妻が子供を連れて家を出る。その後、自殺
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<国内で見られる主な絵画・所蔵品>
望むべく評価を得られず、また事故の後遺症のため失望のなかで命を絶ったゴーキー。 美術史の中での自分の位置を意識しすぎて制作を続けたため(初期のセザンヌ風からキュビズム、そしてシュルレアリスム)その作品は折衷主義的と見なされました。事実、中期まではそうした影響が強く出すぎていると思います。 しかし、対象を明示しない抽象的なフォルムと色彩が乱舞する、晩期の一定の作品群は、まさにゴーキーが到達した偉大な功績では。キャンバスの中で色彩が流動し運動しつづけています そして、その後、アメリカ抽象表現主義の黄金時代がやってくるのです。
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<アーシル・ゴーキー関連の書籍>
参考文献 『モダン・マスターズ・シリーズ アーシル・ゴーキー』 著:メルヴィン・P・レーダー 訳:岡田隆彦、篠田達美 発行:美術出版社/アベヴィル・プレス共同出版 1989 アンナ・ブリック編 年譜 「滋賀県立近代美術館 名品選 現代美術」 発行:滋賀県立近代美術館 平成6年
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