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Otto Dix |
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オットー・ディックス |
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| 経歴 1891 ドイツのゲーラ近郊ウンテルムハウスの労働者の家庭に生まれる。装飾画家として修業の後、ドレスデン工芸学校で学ぶ。ニーチェの作品を数多く読み、その思想に多大な影響を受ける 1914 第一次世界大戦に志願兵となる。 1914-18 野戦砲兵としての訓練を受けた後、機関銃部隊に加わる。数多くの戦線に出陣し、生き延びる。除隊時には副曹長にまで昇進していた。 この、常に最前線での戦闘を繰り返し、そこで見て感じた実体験をやがて“告発・暴露”していく。 1919 美術アカデミーで学び、「1919年グループ」を創立 1920 グロスから第1回ダダ国際見本市に招待される。 1923 マリア・コッホと結婚。既に真実主義ともいえる、事実を決して美化せず、ありのままに描く姿勢が固まる。 戦争の結末といえる戦場の悲惨な現場を描いた『塹壕』を制作。この絵の解釈をめぐり国中で論争が起きる。 1924 『塹壕』がベルリン・アカデミーで展示。政治組織に関わることを拒否。50枚のエッチング作品『戦争』を刊行 1926 前年にベルリンに転居し、この地のニーレンドルフ画廊で初の大個展 1927 ドレスデンの芸術アカデミーの教授に招聘 1930 アムステルダムでの「今日の社会主義芸術」に参加 1932 代表作といえる三幅対『戦争』が完成。ベルリンで展覧会開催 1933 ナチ党員の新学長より教授を解任され、プロイセンアカデミーからも除名。「堕落芸術」展にディックスの『塹壕』『傷痍軍人』らが並べられる。ジンゲン郊外へ転居。直接的ではなく、象徴的な風景画制作を続ける。 1937 ナチスに約260点の作品を押収される。“描かれた兵役拒否”として、とくにディックスの作品は槍玉にあげられ、「退廃芸術展」に展示される 1939 ナチスが押収絵画の一部を競売にかける。ヒトラー暗殺計画の廉で逮捕。 1945 国民突撃隊の召集を受ける。アルザスでフランス軍の捕虜となる 1946 終戦となり戻る。キリストの受難、磔刑の場面を美化せずに描く 1955 ドクメンタIにキルヒナー、クレーらの作品とともに出品 1956-59 東西のドイツより表彰を受ける。ドレスデンではアカデミーの名誉評議員、デュッセンドルフではコルネリウス賞、大連邦功労十字勲章 1960 ジンゲン市市庁舎壁画『戦争と平和』が完成 1966 ゲーラの名誉市民に 1968 ザルツブルグのゲーテ財団よりレンブラント賞の授与 1969 死去 1971 シュトゥットゥガルトで大回顧展、パリにも巡回
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※国内の所蔵品先は(私には)確認できておりません 真のレアリストであろうと望んだディックス。“戦争”の最前線での兵士として長期間戦闘体験をし、その後に著名になった画家はほとんどいません(ほかにレジェ、ボイスなどいますが)。そうした現実をくぐり抜けてきたディックス作品は“戦争”ときってもきれない関係にあります。 “戦争”を描いたものを戦争画と呼ぶとしても、ディックスの戦争画は、戦争の戦意高揚のためのプロパガンダにはほど遠いものです。 また、ナチスから徴兵拒否や戦意消失を招く『廃頽芸術』の代表として槍玉にあげられたからといって、デックスの作品が反戦を目的・意図していたともいえないのではないでしょうか。そこには、そのときの現実が提示されているばかりです。 ディックスの『塹壕』の図版を見て、思い出したのが藤田嗣治(レオナール・フジタ)の『アッツ島玉砕』。当時従軍画家であった藤田のあの作品にはディックス同様の意志を私なんぞはは感じてしまったりします。 ディックスは、その時代のその現場にいた体験・目撃者として戦争というものがもたらすものをありのままに提示しようとした。だから、その作品から何を受けとるかは、私たち自身に委ねられているのではないでしょうか。
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より理解のために <オットー・ディクス関連の書籍>
参考文献 『パルコ美術新書 オットー・ディックス』 著:ディートリヒ・シューベルト 訳:水沢勉、松下ゆう子、真野宏子 発行:PARCO出版 1997 『芸術新潮 1995年8月号 戦後50年記念大特集 カンヴァスが証す画家たちの「戦争」』 発行:新潮社 『芸術新潮 1992年9月号 大特集 ナチスが捺した廃頽芸術の烙印』 発行:新潮社
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