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Aubrey Vincent Beardsley |
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オーブリー・ビンセント・ビアズリー |
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| 経歴 1871 イギリスのブライトン、バッキンガム通りの母方の祖父邸で生まれる。父は遺産をたよりにし、母の父は軍医であり、社交界でその名は知られていた。幼少の頃より虚弱体質で7歳の頃には肺結核の兆しがある。 父が遺産を使い果たし、職を転々と変え、母が働くため小学校の頃より寄宿生活。玩具もなく、唯一の楽しみは教会に通うこと。12歳の時に親戚に預けられ、学校の寄宿生となる。 1888 卒業後、ロンドンへ出て、測量技師の事務所で働く 1889 生命火災保険会社に就職。持病の再発。エッセイを「ティット・ビッツ」誌に投稿 1891 姉メイベルとともにバーン=ジョーンズのアトリエを訪問し才能を認められる。バーン=ジョーンズが勧めた学校のひとつウェストミンスター美術学校の夜間部で学ぶ。 大富豪の邸宅でホイッスラーが手掛けた<孔雀の間>を見て感銘 1892 パリへ行き、バーン=ジョーンズの紹介により画壇で力をもつシャヴァンヌに賞賛される。 デント社から『アーサー王の死』の挿絵を依頼され、会社をやめ画業に専念することを決意 1893 「ステュディオ」誌創刊号に新進の挿絵画家として紹介され、作品も掲載される。その作品を見て、『サロメ』の挿絵の依頼が入る。翌年にかけ、『アーサー王の死』が分冊で刊行 1894 英語版『サロメ』が出版。またたくまに話題を呼ぶ。『イエロー・ブック』が創刊され、美術編集にて参加。ポスターなどの制作も 1895 『サロメ』の著者であるワイルドが同性愛事件で逮捕。自社への余波を懸念したジョン・レインによって、『イエロー・ブック』から解雇される。 1896 季刊誌『サヴォイ』の美術編集に迎い入られる。装丁、挿絵だけでなく小説や誌も発表。しかし、年内で廃刊となる 1897 ローマ・カトリックに改宗。南仏の保養地へ転居。『モーパン嬢』の挿絵を制作 「イエロー・ブック」「サヴォイ」といった前衛誌に挿絵を発表。 1898 死去 竹下夢二、田中恭吉など「月映」の画家・版画家に影響を与える(逆輸出のようなものですね)
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※ ラインブロックの作品は、国内のアート・オークションなどでもみかけますが、原画などの作品の国内所蔵先は(私には)確認できておりません ちなみに私が所有している岩波文庫のワイルド作の『サロメ』(発行:岩波書店)には、ビアズリーの挿絵が17点入っています。1987年度第33刷りの時点のものなので、現在もそうかは定かではありませんが… 退廃、デカダンスの象徴的なイメージを持つビアズリーですが、本人自身はあくまでも、そうした“フリ”をして、回りの人たちを、そして自分自身を楽しませていた部分もあったようです。 そして、ビアズリーは、かなり日本文化に影響を受けており、葛飾北斎の「北斎漫画」などを見て、その思想を西洋風に再構築していますし、また日本の版画の色面から、あの独特の黒の色面との対比、そこに白い細い線を使用する技法を編み出しました(そのほかの形態についても、さまざまな影響がいわれていますが、知りたい方は書籍を読んでください) 世紀末のデカダンスという社会文化が生み出した時代を代表するイラストレーターですね。 |
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より理解のために <ビアズリー関連の書籍>
参考文献 『オーブリー・ビアズリー 世紀末、異端の画家』 編著:河村錠一郎 発行:河出書房新社 1998 「世紀末ヨーロッパ象徴派展」発行:東京新聞 1996
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