美術と近代社会史

 red05_next.gif近代日本/明治後期

 日露戦争・日韓併合/浪漫主義から自然主義へ 白馬会と太平洋画会 青木繁と中村不折

  

  

トップページ/ピースフルアートランドびそう

美術と社会史 近代日本目次

美術家DATA 目次

美術家の言葉 目次

ism(美術運動)の証言 目次

絵画の制作技法・構造と効果 目次

 


 日本の産業界も明治30〜40年にかけて、産業革命を経験。紡績・製糸の軽工業が中心ではあったが、軍事を中心として官営の重工業も発展していく。欧米列強の先進国は帝国主義時代に完全に突入している。

社 会 動 向

文学の動向

帝国主義とは、資本主義が成熟期に入り、輸出のための膨張・征服主義であり、対外積極主義の国策をとることである

日本は、経済・産業的にも帝国主義に突入する基盤は整っていなかったが、欧米列強の帝国主義のアジア侵入に対抗するためにも、それに追従し帝国主義的になる必要があった。

帝国主義とは反する社会主義の社会民主党が結成される。それまでに労働運動や労働組合などが結成され、社会主義運動も根付き始めていた。しかも、これは、アメリカ仕込みの社会主義であり、人道主義的な色合いが強く穏健的であり、また自由主義的な考えをもつ政党出身の西園寺内閣であったため結成できたともいえる。

 

社会主義者の幸徳秋水が『廿世紀之怪物帝国主義』を発表

国木田独歩『武蔵野』

文学界では浪漫主義が主流であったが、国木田独歩は次の自然主義の先駆けともいえる、自然と人生を深く観察して、その意味をつかむということを行っていた。

与謝野晶子『みだれ髪』

 清国の民衆が列強の侵略に反発する動乱が一気に広がり、北京に迫る(義和団の乱)。当初列強は、日本からの大量出兵を渋っていたが、英国艦隊が攻撃を受けて消息を絶つなどの事態となり、ついに日本に要請。

日本から五師団が投入(計2万2,000人)それを含む連合軍4万7,000余の兵力で北京を救援し、鎮圧

講和条約が結ばれ、日本の力を示す

 

 満州を狙うロシアは、大量の兵力をシベリアから満州に移動し、鎮圧後も占領を続ける。日本は英国、米国政府に働きかけ、対露共同撤回勧告を発してロシアの進出を阻止⇒ただし、今後の驚異と利害関係からロシアと協調していくか他列強と結んで力で阻止するかの二者択一となり、三国干渉の時に中立であった英国と結ぶこととなる。ここに日英同盟が成立

 永井荷風『地獄の花』は自然主義への移行時の作品。回りの環境に支配されて、自分では知らず知らずのうちに転落していく女家庭教師の話

 ロシアは満州からの撤兵を不履行。韓国へも租借で進出する。

これに日本国内世論が反発。東大法科大学教授ら7博士が、当時の桂首相へ開戦論を進言。政府を軟弱として民間の強硬論をあおり、世論も主戦論に傾く。

政府は開戦回避を望んでおり、満韓交換的態度でロシアと交渉するも、ロシアはこれを拒否すると同時に満州への兵力を増強

妥協点がなくなった政府も、ここにきて開戦外交を準備 ⇒ 前年の歳入総額の6倍上、日清戦争時の9倍上の予算を組み、その軍事費を国内外の国債で充当することとする。

高橋是清が英、米で国債の引き受けを頼むが不調(予定の半分のみ)。そこにNYのクーン・ロエプ商会首席代表ヤコブ・シフが残りを引き受けてくれることとなり、開戦軍事費にメドがつく。ヤコブは在米ユダヤ人会会長でロシアのユダヤ人迫害に報いるために協力した。

 

  日本海軍が「旅順港」を攻撃。両国の艦隊が交戦し、日本が宣戦布告をして日露戦争が開戦。英国はもちろんのこと、米国も日本寄り。対してドイツはロシア寄りとなる。

日本は開戦と同時に、韓国の保護権確保をはかる日韓議定書を調印。その内容は、財務顧問と外交顧問に日本政府が推する者を各1名ずつ任命するというもの。

 与謝野晶子の『君死に給ふこと勿れ』を明星に発表。その内容に対して議論が沸騰。

「ああ をとうとよ君を泣く 君死に給ふことなかれ 末に生まれし君なれば 親のなさけはまさりしも 親は刃(やいば)をにぎらせて 人を殺せとをしへしや」

この内容を国家観念の軽視ととるか、社会主義的反戦ととるか、一人の肉親の嘆きとした詩情ととるか…あなたはどうとる? 戦火の下では?

 

 「旅順」要塞の開城。「奉天」の占拠に続き、日本海大海戦で日本が勝利する。これを機に米国大統領ルーズベルトに講和斡旋を非公式に依頼。

ロシアは連続の敗戦と国内の社会不安により講和に応じ、ポーツマス講和条約に調印

しかし、日本国内では、その条約内容に国民が反発し、非講和運動が起こる。財界も償金放棄に不満で(日清戦争時には数億の償金があったため)、大阪財界の指導的人物らが主催した市民大会で「現講和条約を放棄し、更に戦争を継続せんことを期す」という強硬な内容の決議を行う。

東京でも国民大会の余波で民衆が内務大臣官邸、警察署、交番などを焼き討ちする暴挙にで(日比谷騒擾事件)、政府が戒厳令をひく。

日本政府としてはこの条約が国民から反発されるのは予測していたが、軍事的にも底をつきかけた状態であったため、韓国への絶大な影響力と大陸との足がかりを確保したことからの妥協点でもあった。

 

すぐさま日韓協約が結ばれ、韓国の外交権を接収。初代統監に伊藤博文がつく。

 

 夏目漱石『我輩は猫である』発表開始。夏目漱石は、浪漫主義でも自然主義でもない、“余裕派”と呼ばれていた。これはもともと英文学者、俳壇の大家であったこともある

俳句雑誌『ホトトギス』には、中村不折以外にも明治43年までに、坂本繁二郎、小川芋銭、竹下夢二らも挿絵を描く

 文学界では浪漫主義から自然主義に移行していく。

文学における自然主義的態度とは、人生に理想などなく、あっても幻である。さまざまな出来事が起こるが、人生の目的というものはなく、全てが無理想で無解決なものである。だからこそ、そうした人生と向かい合って、時には人生の本当の姿に戦慄しながらも見つめるのが新しい芸術の使命である、というもの。

これは欧州近代文学や思想の影響も大きい。ゾラやモッパーサンが紹介されていた。

 南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立。初代総裁には、台湾での植民地行政ですぐれた手腕を発揮した後藤新平

日韓協約に基づき、ソウルに統監府を開設。反対運動が強くなり、日本軍二個中隊の出動も。

韓帝は、米・英・露に密使を送り、現況と独立支援を訴えるが、米・英は日本支持であり、ロシアもポーツマス条約で日本の韓国に対する卓絶なる地位を承認していたため成果はない⇒譲位

 

 島崎藤村『破壊』。元来、詩人として著名であった藤村が自費出版した小説であり、自然主義の作品としても衝撃を持って迎えられる。

自然主義は上記(前年)にも記したが、だから事実や経験をできるだけ忠実に写すこと、つまり私小説が小説の本道であり、人生の真実の記録であるという考え方が世論に広がっていき、独自の発展・方向性を持っていくようになる

 

日本の巨大化の警戒感から米国が日本との距離をとる。

南満州の進出にともない、北満州に勢力を持つロシアとの協調関係が必要となり日露協約を調印。満州における両国の利益範囲のほか、日露互いの鉄道の接続、通商航海条約なども結び、関係が軌道にのる。

 

 

 

 

 

 

 田山花袋『蒲団』

田山は浪漫主義から自然主義に転向しており、この作品では中年文学者が女性の内弟子に対する内的生活を赤裸々に描写している。

その後も『田舎教師』などを執筆

 

 

 

 

 

 

 

 

 余裕派の夏目漱石が『三四郎』発表。翌年には『それから』、その後に『門』を発表。

⇒浪漫主義でもなく自然主義でもなく、心理に迫っていく。

 監を退任し、列強各国に日本の立場を遊説していた伊藤博文が、ロシア内で朝鮮人青年に殺害される。

 自然主義に対する反発として唯美主義がでてくる。その一人が谷崎潤一郎『刺青』。翌年に『少年』

官能美や幻想的美の世界を構築していく。

 統監の寺内正毅が、韓国総理大臣李完用と「日韓併合に関する条約」に調印。内容は、韓国皇帝が韓国全ての統治権を完全、永久に譲与したというもの。

米国から満鉄中立案(列強諸国による共同管理)が出され、容認できない日露は互いの提携を強固にする第二次協約に調印。

国内では、社会主義者の職工長らが爆破物密造で逮捕。天皇暗殺計画が露呈し、幸徳秋水をはじめてする関連者を逮捕(大逆事件)。24名のうち半数は恩赦で無期懲役、半数は処刑となる。これから社会主義は冬の時代へ。

 雑誌『白樺』が創刊。その後、西洋の文学や美術を国内に紹介する貴重な役割を担っていく。

石川啄木の『一握りの砂』

詩においても浪漫主義と自然主義的区別があった。それは実生活を歌うというものである。たとえば、石川啄木の「汽車の窓 はるかに北にふるさとの 山見え来れば 衿を正すも」

  天皇が崩御。大正に改号。

 

 

  <参考文献>

「日本文学通史」著:次田潤 発行:明治書院 昭和11年

「明治・大正・昭和」著:中村光夫 発行:新潮選書 昭和47年

「図説 日本の歴史15 明治日本の開花」 編集責任者:大久保利謙 執筆者:大久保利謙 増井経夫 井上幸治 発行:集英社 昭和51年

 

  

 


 国粋主義による油彩画の冬の時代も“雪解け”し、さまざまな美術団体などが設立され、確固たる地位を築いていく。

 

 

日本油彩画の動向

明治34

1901

 5年前には黒田、久米らが退会していた明治美術会が解散。若手の吉田博、満谷国四郎らが太平洋画会を結成

日本の油彩画界は、白馬会と太平洋画会のふたつが中心になっていく。

このふたつの会の区分けのひとつとして、白馬会 ⇒ ラファエル・コラン(印象派的外光)に学んだのに対し、太平洋画会 ⇒ ジャン・ポール・ローランス(歴史画的アカデミズム)に学んでいたことかあげられる

白馬会の藤島武二は、与謝野晶子の『みだれ髪』の装幀を行う。後に雑誌『明星』の表紙も手掛ける

 

 

 

中村不折、渡仏。ラファエル・コランにつくが満足できず、ローランスに師事。3年間の滞在に

 

白馬会結成時に参加していた岡田三郎助、パリから帰国。師ラファエル・コランの画風を最もよく継ぐ画家として繊細な女性像を制作していく

 

 

明治35

1902

 

 

 

 

白馬会の藤島武二が『天平の面影』制作。白馬会が目指す構想画(ありのままを描くのではなく、それを独自のものとして表現、再構築していく)のひとつとして名高い

 

 

 

明治36

1903

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 白馬会の青木繁が第8回白馬会に出品。『黄泉比良坂』『闍威弥尼(じゃいみに)』が第1回白馬会賞を受賞。

⇒ 『黄泉比良坂』は、イザナキの命が、死んだイザナミの命に会いたくなり地底の黄泉の国に行く。しかし、醜悪に朽ち果てた体とばけもののような黄泉の国の神を見て逃げ出す。それを追う魔物の黄泉醜女(よもつしこめ)や雷たち。黄泉比良坂とは、黄泉の国との境のこと。その場面を描いているわけです。詳しく読みたい方は、古事記をどうぞ。下の参考文献のものがおススメです。

青木茂はもともと文学好きであり、古事記らの日本古来の神話をモチーフに、日本の構想画、神話画のジャンルを開拓していく。(ワッツ、バーン=ジョーンズ、モローらのラファエル前派らの影響も)浪漫主義を代表することともなる

中村不折、ヨーロッパ時に制作『裸婦立像』

 

明治37

1904

 

 

 

 

 

白馬会の藤島武二、代表作のひとつでもある『蝶』を制作。女性のまわりを、はたはたと飛び回る蝶たち。当時は文学的、浪漫主義的な作風が続く。

白馬会の青木繁、代表作となる『海の幸』を発表。この絵の中で唯一、しっかりとした顔が描かれ、鑑賞者の方を向いている人物のモデルは、妻の福田たねだといわれている。福田たねは翌年の作品にも登場。

中村不折、帰国。太平洋画会に参加。明暗法を使用した裸体人物像は、その確固とした実在感と人の尊厳をも現し、その後にも類をみない人物像を作り出す。

 

明治38

1905

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

白馬会の青木繁『日子大穴牟知命』を発表。これも古事記の話の一場面です。

『日子大穴牟知命』 ⇒ ヤカミ姫はオオアナムジの神の妻になりたいといい、それに嫉妬したオオアナムジの兄弟の神々が策略をめぐらし、オオアナムジの神を殺害します。それを知った母のサシクニワカ姫は、生命力のある神に願いをした。心動かされた神は、赤貝の精のキサガイ姫と蛤の精のウムガイ姫をつかわせる。キサガイ姫が集めて削った赤貝の粉を、ウムガイ姫が自分の乳をまぜて練り薬をつくり、やけどを直して生き返らせる、その場面です。

この中のウムガイ姫のモデルはやはり妻の福田たね、なのです。そして、その後のオオアナムジがどうなったかは…長くなるので、古事記をどうぞ。下の参考文献のものがおススメです。

1901よりパリのアカデミー・ジュリアンのローランスに学んでいた鹿子木孟郎は、日露戦争で一時帰国。太平洋画会に『琵琶法師』を出品。明暗法を取り入れた、しっかりとした画面の絵画。

また、日露戦争で日本陸軍が「奉天」で勝利し、奉天城に入場していく場面の戦争画『奉天大会戦』を描く。

太平洋画会の中村不折、雑誌『ホトトギス』に挿絵を描く。また、夏目漱石の『我輩は猫である』や島崎藤村の『若菜集』にも表紙、装丁などを手掛ける

 また、中村は日露戦争時の戦争画『日本海大海戦』を描く。これは、東郷司令長官率いる日本連合艦隊がロシア艦隊に砲撃している様を、ある戦艦の甲板上からの視点で描いたもので、目の前には大砲が唸りをあげ火炎をふき、その場にいるような緊迫感をつくりだす構図が特長。

 

明治39

1906

 

 

 

 白馬会の藤島武二、渡仏。デュランらに学ぶ

国内の美術団体にさまざまなものが出来始める ⇒ これらを統合整理し、国内にもヨーロッパでいうサロン的な物を作ろうという動きが起こる。翌年には日本のサロンとして文展が開催されることになる。

太平洋画会の鹿子木孟郎、再度渡仏。しかし、その後帰国と渡仏を繰り返している間にアカデミズムに固まった時代遅れの立場になってしまうのだが…

 

 

明治40

1907

 

 

 

 東京府勧業博覧会開催。白馬会の青木繁は『わだつみのいろこの宮』を出品。この作品も古事記の海幸彦、山幸彦を発想の源としている。青木繁自身の自信作であったが、自らが想定していた評価より低いものであった。この後、父の死があり郷里へ戻る。

同博覧会で一等賞を受賞したのが、白馬会の岡田三郎助『婦人像(紫調)』

第1回文展。新旧各派からバランスよく審査委員会メンバーが選ばれる(かなりモメたようだが。森鴎外も西洋画部門メンバー)。文展の第1回最高賞に白馬会系の和田三造の『南風』が選出。

⇒『南風』は、漁に船出した漁民たちを描いているが、中央に立つ男がギリシア彫刻のような身体を持ち、風に向かって立っており、日露戦争に勝ち、大陸進出を果たした当時の日本の対外的な気分(自信)をも暗示している、と個人的には思うのだが(東京国立近代美術館で見れますので、ぜひ一見を)。

太平洋画会の中村不折は代表作のひとつである『建国瓶業』制作。歴史画のその後も数多く制作する

明治41

1908

 

白馬会の藤島武二の渡仏中の代表作『黒扇』が翌年にかけて制作。藤島武二のイメージはこの頃のものが一般的には強い。しかし、画風はかなり変化した時にはフォービズム的であったりもする

白馬会の青木繁『漁夫晩帰』。『海の幸』と同様の漁村風景ではあるが、後者が構想画であるのに対し、前者は現実の風俗を描いている。登場する人たちの表情には1日の仕事を終えた幸福感があり、次の展開にむかうがにみえたが…3年後貧困の中、寂しく、病にて死去

明治42

1909

 

 

 

 

 

明治43

1910

 

 

 

 

 

 

 

 明治45/大正元年

 夏目漱石が文展批評を新聞紙上で発表。緑色の太陽を引き合いに、自己の表現が全てである旨の内容。より自由な表現の素地が既に生まれている。

 

「橋本治の古事記」 著:橋本治 発行:講談社 2001

「芸術新潮 1994年3月号 常識よ、さらば!日本近代美術の10章」より貧乏画家の飯の種は何だったのか 著:青木茂 発行:新潮社 1994

「岩波 日本美術の流れ6 19・20世紀の美術 東と西の出会い」著:高階秀爾 監修:辻 惟雄・高階秀爾 発行:岩波書店 1993

「近代日本美術家列伝」編:神奈川県立近代美術館 発行:美術出版社 1999

「現代日本美術全集7 青木繁/藤島武二」  河北倫明 嘉門安雄 発行:集英社 1974