美術と近代社会史

 red05_next.gif近代日本/明治中期 

 大日本帝国憲法・日清戦争 ビゴー、浅井忠、黒田清輝

  

  

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美術と社会史 近代日本目次

美術家DATA 目次

美術家の言葉 目次

ism(美術運動)の証言 目次

絵画の制作技法・構造と効果 目次

 


社 会 動 向

文学の動向

国会開設にともない、太政大臣、省卿制廃止⇒総理大臣、各省大臣、内閣に。初代総理大臣は伊藤博文

皇室経済基礎の確立がすすむ

天津条約で朝鮮に対する日清関係で大日本帝国は独占的な優位失う

坪内逍遥の「小説真髄」

小説を美術のひとつとし、人情を描写するものであるとする。従来の勧善懲悪主義の小説とは明らかな一線を画す

尾崎紅葉、山田美妙らが同人誌を発行

西洋列強との条約改正運動が高まる大同団結運動。

官報号外で突然「保安条例」が発布。秘密の集会・結社の禁止、新聞の検閲などで、東京からの570名の退去を命じる。民権過激派を封じる

 文学は、これまでの娯楽やひまつぶし、また社会との実益とはかけ離れたところで、人生の真実を追究するものだ、という形で立ち上がる。芸術のひとつであると。

浪漫主義時代といわれる

官使方法を資格(試験)任用制に。帝国大学卒業生を優遇

新聞社が政党から離れ、独自の報道体制で大衆向けのマスコミの形になっていく。その一貫として新聞に連載小説が掲載されはじめる

 二葉亭四迷の「浮雲」は、はじめて言文一致で成功。

わずか4人の登場人物ながら、その心理、性格を巧にえがきわける。また、当時のエリートの主人公は忠実に生きながらも、常に社会に裏切られる苦悩を描き、大切なものを問う。文章は、きわめて言語的であり、リズムで読んでいける。

 黒田清隆が総理大臣に。伊藤博文は憲法草案審議に専心

 山田美妙が前年より新聞に発表していたのが「武蔵野」

南朝の新田義興の家来とその娘婿と娘の不幸な歴史小説

大日本帝国憲法の発布。

発布前、東京では洋服屋が大繁盛。国旗売り切れ、酒も品薄大衆は、新しい洋服を着て憲法を祝うという心情。さまざまなパレードも。

しかし、あくまでも専制的で天皇を中心とする憲法。自由民権運動の平等とはほど遠い。しかし、当時の国内外の情勢から専制的であるのがいちがいにおかしいとはいえない。

 

 第一回衆議院議員総選挙

民党派(自由党、改進党)が大多数を占め、政府は超然主義に。議会開設

 幸田露伴の「風流佛(仏)」。愛人に対する執念・執着を、美人像に刻み込む芸術家肌の男が主人公。芸術家の意志と情熱を描く。

 不平等条約改正と諸外国と交渉中に、来遊していたロシア皇太子を警護の巡査が襲撃する大津事件勃発。皇太子は軍艦に戻る。国家重大事で国を救うという使命感から法解釈を曲げても被告巡査の極刑を政府が求めるが、司法はその聖域を守る。

 森鴎外の「舞姫」。省から留学のエリート青年官使の主人公はは踊り子と恋し免官となるが、友人の助けで戻れることになり、恋人をおいて帰国する。何が幸せであるかを問い、また当時の知識階級の悩みを扱う。(明治23)

それ以前は翻訳文学を行う

 政府の議会運営も困難で、民党派は対外硬に固まり、政府の条約改正は不調続き。

 幸田露伴の「五重塔」。前年より新聞に連載。職人としての誇りやその仕事に対する情熱など、理想主義の特長をあらわす

 

 

 

 

 

 朝鮮で東学党の反乱。政府軍敗退続きで清国に支援を求め清国が鎮圧のため挙兵。その通知を受けた日本帝国は天清条約をもとに大本営をもうけて軍を出兵。開戦決意。

イギリスと不平等条約の改正調印に成功

クーデターで傀儡政権樹立。宣戦布告し、日清戦争に突入。

 

 

 尾崎紅葉と幸田露伴の全盛時代

森鴎外、軍医部長として出征。また森鴎外は、美術評論としても活動している。

 日本帝国連戦連勝。義戦として戦勝ムード高まる。

米国が仲裁により下関講和条約成立。遼東半島の割譲等を得る。

中国に野心のあるロシアを中心にドイツ、フランスがこの条約に干渉し(三国干渉)、日本帝国、譲歩を強いられる。「臥薪嘗胆」とし、対ロシアへの敵対感情高まる。

伊藤博文内閣、自由党との提携によって議会を乗り切る。政党が入閣を始めて果たす。

 樋口一葉の「にごりえ」「13夜」運命や境遇に翻弄され虐げられる女性像を描く。18歳で父がなくなり、一家の柱として、また貧困の中で独学。独特の人生観を得、それが表出。翌年、24歳結核で死去。

日本画家・鏑木清隆が挿絵や肖像画を描く(本人とは会わず)

 

 

 

 

 尾崎紅葉は「金色夜叉」を讀賣新聞に掲載。以後、断続的に5年間掲載も、未完成で亡くなる。小栗風葉がその後をついで書く。

自由党と進歩党が解党して統一の憲政党を結党。伊藤博文が退陣し、後継首班に憲政党の板垣退助と大隈重信を指名し、最小の政党内閣の誕生。

しかし、すぐに分裂。退陣

第二次山縣有朋内閣は憲政党と提携し、地租増徴などを実行。憲政党はうまく使われる。

 

 

 

 

 

かねてから、政府を助ける政党がなければならないと考えいた伊藤博文と憲政党が解党して合流。政友会結党。

伊藤博文の第四次内閣成立。

 

 

 人生の矛盾から起こる悲惨な事件を主題とする観念小説が出てくる。泉鏡花の「夜行巡査」

自分の恋人を引き離そうとする恋人の父が濠に転落したの見て職務から助けようとし、自分が死んでしまう巡査の話。

日本画家・鏑木清隆がその挿絵などを描く。

 

 

 

 <参考文献>

「日本文学通史」著:次田潤 発行:明治書院 昭和11年

「明治・大正・昭和」著:中村光夫 発行:新潮選書 昭和47年

「図説 日本の歴史15 明治日本の開花」 編集責任者:大久保利謙 執筆者:大久保利謙 増井経夫 井上幸治 発行:集英社 昭和51年

「近代日本美術家列伝」編:神奈川県立近代美術館 発行:美術出版社 1999年

「ジョルジュ・ビゴー展 明治日本を生きたフランス人画家」監修:エレーヌ・コルヌヴァン、清水勲 編集・執筆 酒井忠康 杉村浩哉 小松崎拓男 発行:美術館連絡協議会 読売新聞社 1987

「現代日本美術全集16 浅井忠/黒田清輝」鈴木健二 隈元謙次郎 監修:谷川徹三 河北倫明 発行:集英社 1974

「のぞいてみよう!幕末・明治のヴァーチャル革命 日本近代洋画への道」発行:埼玉県立近代美術館 2002

 

 

  

 


年代

絵画の動向

明治18年

1885                

 

 

 

 ジョルジュ・ビゴー、陸軍士官学校画学教師の契約が満了し、政党系新聞<改進新聞>の専属画家、自由民権運動の士・中江兆民の仏学塾の教師に。

ビゴーは、国内日本人からはとかくやっかいもの扱いされたが、その風刺画やスケッチは明治日本の風俗、文化面の資料としては必要不可欠なほどの基調なものとなる。

 

明治19

1886

 

 

 久米桂一郎、渡仏。黒田清輝と親交を結ぶ。

 

明治20

1887

 

 

 

 山本芳翠、原田直次郎帰国。翌年それぞれが画塾を開く。

国粋主義も憲法発布の決定などで弱まり、東京府工芸品共進会に洋画(油彩画)の出品が認められる。浅井忠、「農婦帰路」などを出品。

 ビゴー、時局風刺雑誌<トバエ>を横浜居留地にて発刊。ワーグマンの<ジャパン・パンチ>終刊。

 

明治21

1888

 

 松岡寿、帰国

 ビゴーと山本芳翠は、ともに磐梯山噴火の取材を行い、その画を描く

明治22

1889

 

 

 

 

 

 油彩画の普及を目指し、明治美術会が結成される。設立は高橋由一、浅井忠、小山正太郎、松岡寿、川村清雄ら。参助会員には政治家、実業家も加わる。

明治美術会の第一回展は好評。皇后陛下の行啓もあり会期も延長。浅井忠「春畝」出品。

東京美術学校開校するも、油彩画のクラスはない

 

明治23 1890

 

 第3回内国勧業博覧会。今回は油彩画の展示が可能となる

明治美術会第二回展覧会に浅井忠「収穫」出品。しかし、第三回目以降、出品せずや小品になっていく。

明治24

1891

 

 

 

 留学中の黒田清輝「読書」を描き、サロンに入選。著名な「婦人図(厨房)」なども、明治25にかけての洋行時の作品。

また黒田はグレーで制作活動をしていた。

明治25

1892

 

 

 

明治26

1893

 黒田清輝、久米桂一郎、帰国

黒田、帰国に伴い、その集大成の代表作「朝妝」をパリで制作。

ビゴー、中国とシベリアに滞在。

 明治27

 1894

 

 

 

 

明治美術会第6回展に、黒田と久米が帰国後作品を出品。その明るい画面が注目を集める。

黒田清輝が山本芳翠から生巧館を引き継ぎ、天真道場開設。道場規定には<稽古は塑像臨写活人臨写に限る事>というのがある。パリの通信社の通信員として日清戦争に従軍

浅井、小山、山本も従軍。浅井忠は遼東半島から旅順攻撃に同行、戦後の旅順を見た後帰国。

高橋由一、死去

ビゴー、佐野マスと結婚。イギリス<グラフィック>紙の通信員として日清戦争取材。現在では教科書に掲載されている「漁夫の利」を描く

 明治28

 1895

 

 

 

 

 

 

浅井忠の従軍時のスケッチなどが「従征画稿」となる。

第4回内国勧業博覧会で黒田清輝の「朝妝」(裸婦像)の陳列についての可否が激論される。黒田自身も同博覧会の審査員であった。ビゴーが裸体画を見る人たちの風刺漫画を描く。

明治29

1896

東京美術学校絵画科に西洋画科(油彩画)が設けられる。黒田清輝が講師に。

 明治美術会を退会し、天真道場から白馬会を創立(黒田清輝、久米桂一郎、山本芳翠

明治30

 1897

 (前年の年末より、浅井は黒田を訪ね、房総海岸で数日間ともに写生を行っている)

明治31

 1898

 

 

 

 

 黒田清輝、東京美術学校教授に。助教授に藤島武二、岡田三郎助、西洋美術史に岩村透を推薦し白馬会関係者で固める。これにより、白馬会が日本油彩画の中心となっていく。

浅井忠も東京美術学校教授になる。外光派と脂派、新派と旧派という区分づけが行われ、浅井忠らは旧派という不当なイメージづけをされ、過小評価されていく。

明治32

1899

 文部省より浅井忠に洋画研究のためのフランス留学を命がくだる

三国干渉などで排外主義が強くなり、新通商条約にともない居留地もなるなるなどの状況の変化から、ビゴー帰国。婦人とは離婚

明治33

 1900

 

 

 

浅井忠、渡仏

 黒田清輝、文部省より絵画教授法の研究と美術制度調査のフランス視察の命。パリ万博の出品整理と説明もゆだねられる。

ビゴー、パリ万博の日本と中国のパピリオン関係やポスターなどを手掛ける。

パリ万博で黒田清輝の「知・感・情」と「湖畔(1897作)」を出品。「知・感・情」が銀賞受賞。