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Eugene Delacroix |
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ウジェーヌ・ドラクロワ |
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経歴 1798 フランス、シャラントン・サン・モーリスで大使の家庭に生まれる。実の父は高名な外交官であったといわれる。 1806 名門のリセ・アンペリアルに入学。 画家のリーズネがドラクロワの絵の才能を見出し、学校を退学させ、ゲランのアトリエに入門する。 同アトリエ内で先輩であったジェリコーと知り合う。 1822 サロンに初めて出品した「ダンテの小舟」が入選。審査員であったグロが強く推薦したといわれる。 イギリスの水彩画家とも知り合い、イギリスの風景画家・コンスタブルに感銘。 1824 「キオス島の虐殺」をサロンに出品。酷評。その時、エピソードとして、たまたま会場に運ばれたコンスタブルの作品を見ると、自作を壁からひきおろして色を加えたという。 1825 イギリスに渡る。シェークスピアの芝居などを見、劇的かつ詩的な情感のインスピレーションのもととなっていく。 1827 代表作「サルダナパールの死」制作 1830 寓意的な「民衆を率いる自由の女神」制作。この頃から、完全に新古典派の絵画と対立していく。 1832 モルネ伯の随伴でモロッコ旅行へ。オリエントの明るい光からより鮮明な色彩感を獲得する。 1836 ブルボン宮「王の間」の壁画公開。その前年に悪性の喉頭炎になる。生涯彼を苦しめることに。 1838 ブルボン宮の国民議会図書室の壁画の依頼。 1840 リュクサンブール宮の天井壁画制作 1849 アカデミー会員に立候補するも四度目の落選 1855 パリ万博で、アングルとともに出品画家として選ばれる。(42作品を出品した回顧展)。レジオン・ドヌール勲章を受ける 1857 アカデミー・デ・ボザールの会員に選出 1863 死去
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<国内で見られる主な絵画・所蔵品>
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「民衆を率いる自由の女神」は、誰もが知っている名作。この作品が日本に来たときには私も見に行きました。想像以上の大きさではありましたが、照明が暗すぎてちょっと観にくかったのは残念でしたが…(作品保存のために仕方ないのです)。 ドラクロワは、戦闘と狂乱、錯乱した場面を主題に用いることが多いために、画家自身に対するイメージも“マッチョ”的なものを想像しがちですが、実際はかなり病弱な体質であったのです 強いもの、戦いに対する、ほのかな憧れが、より強い激情やロマン主義に向かわせた、ひとつの要因ではあるかもしれません。 その色彩と群像から、ルーベンスにも相通ずるものもありますが、ドラクロワがルーベンスの絵画を見たのは中年以降になってから。その時、どんな感想をもったのか、非常に気になります
参考文献 「朝日美術鑑賞講座6 名画のみどころ、読みどころ 19世紀近代絵画@」 絵画解説 匠秀夫/近藤昭/太田泰人/山梨俊夫/水沢勉 発行:朝日新聞社 1992 「西洋美術館」 近代T 編集委員 千足伸行 発行:小学館 1999
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