Dante Gabriel Rossetti


  

  ダンテ・ガブリエル・ロセッティ


  

  

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美術家DATA ラファエル前派目次

美術と近代社会史・英国

美術家の言葉 目次

ism(美術運動)の証言 目次

絵画の制作技法・構造と効果 目次

経歴

 1828 イギリス、ロンドンに生まれる

父がダンテ学者であった影響もあり、幼い頃より、シェイクスピア、ゲーテなどを読み、それを絵にしていた。

1841 キングス・カレッジ・スクールを退学し、私立絵画学校“サスのアカデミー”に入学。ロイヤル・アカデミーに入るための現在でいう予備校である。

1843 予備校の先生に不審を抱き、かつウェストミンスター宮殿内部壁画下絵競技展で一等をとったワッツに感銘を受ける。

1844 ロイヤル・アカデミーのアンティック・スクールの見習生となるが、当時の模写偏重のシステムに辛抱ができず

画家に弟子入りしたり、他の絵画学校にも通う。

ダンテの『新生』らの翻訳を決意。4年かけて翻訳完了。後1861に『初期イタリアの詩人たち』で出版される。

ロイヤル・アカデミー展でハントの絵を見て賞賛したことがきっかけとなり、ハントと付き合うようになり、そのハントの友人のミレイとも付き合いが始まる。

1848 ラファエル前派兄弟団(The Pre- Raphaelite Brotherhood)をミレイ、ハントら計7名で結成。ロセッティ自身はグループ名に“初期キリスト教”を入れたいと考えていたが却下される。ミレイ、ハントとは根本の志向が異なっていた。

署名のPRBとは、名称の頭文字をとったもの。

1849 無審査の自由展覧会に「聖母マリアの少女時代」を出品。マスコミからも好評。

1850 「見よ、われは主のはした女なり」が、受胎告知に呆然とするマリアの表情、通例の青の衣裳を着ていないことなどもあり、マスコミから「才能の悪用例」と叩かれ、評価が一変する。

PRBの署名の意味がマスコミに漏れ、進歩を破棄し未開な幼児期の芸術に戻るものといった趣旨で叩かれる。こののち、ラファエル前派は、宗教的主題から離れるようになる。

1851 著名な美術評論家ラスキンが非難の的であるラファエル前派を擁護。この後、ラスキンとの付き合いが始まる。

1852 エリザベス・シダルと恋に落ち、その恋愛をダンテの『新生』『神曲』らをモチーフとした形で投影した絵画を描き始める。ジダルはその後、病魔に。

1854 唯一、同時代を題材とした作品「見つかって」を描く。

1857 慕って集まってきた若手美術家のバーン=ジョーンズやモリスらと、オックスフォードのユニオン・クラブ討議室の壁画制作を始める。主題は『アーサー王の死』

1859 画風に大きな変化。主題のない色調による絵画が多くなる「ボッカ・バチアータ」が契機。ホイッスラーはこの絵をパリで展覧する計画さえも考える。

1860 病状が回復しないジダルと結婚。

1861 ウィリアム・モリスが始めた家具・調度のインテリア店「モリス、マーシャル、フォークナー商会」の協力者となる。

ジダルが死産。神経を静めるため阿片チンキを多用し、翌年、過剰服用で死去。棺にそれまで書き溜めた詩のノートを埋葬。

1862 ミレイを絶賛していたホイッスラーと知り合う。互いに影響を与え合う。

1869 妻の墓から詩のノートを掘り起こす。翌年、処女詩集刊行。

1870 「ベアータ・ベアトリクス」が完成

1871 ウィリアム・モリスの妻と不倫関係に。その発覚の恐れと、眼疾への恐れ、妻の墓を掘り起こしたという良心の呵責から精神に異常をきたす

1872 幻聴にさいなまれる中、阿片チンキにて自殺。(バーチントン・オン・シーにて)

 

 

 

  

 

<国内で見られる主な絵画作品・所蔵品>

●国立西洋美術館

制作年

愛の盃

1867

●郡山市立美術館

 

マドンナ・ピエトラ/パステル

1874

 国内の個人コレクターの所蔵品多数あり

 

ロセッティの水彩画の描き方

(「ロセッティ ラファエル前派を超えて」 著者:谷田博幸 発行:兜ス凡社 1993より流用)

 (前略)…紙に余り頓着せず鉛筆を走らせ、何本もの線である形を描き出していった。こうして作られたスケッチは、輪郭線だけというのでも陰影だけというのでもなく、そのふたつがまじりあったものであった。それから彼はやおら筆を取り出し、紫紅色を含ませて紙の余白で筆から水気がなくなり、乾いた絵具だけが残るまで何度も擦った。

 そうしておいて、その乾いた絵具をかなり粗いモデリングが描きあがるまで紙になすりつけた。そして、大まかな色の効果が得られるまで、彼は同じように乾いた筆で繰り返し、さまざまの色を擦りつけていた。

 それはかなり荒々しいものであったが、その輝きと色彩は実に生き生きとしていた。その後、かれはその効果を幾分削ぎ、和らげるかのように全体に淡彩を施した。そして今度はもっと流麗な筆捌きで以上の手順を繰り返し、すぐさまかれにしか生み出しえないと思われるような素晴らしい色彩の作品を完成させた。(後略)

  

 

green07_next.gif ラファエル前派の「ismの証言」

ロセッティ関連の書籍

 

 ロセッティとダンテの文学作品は、切っても切れない関係にあります。そして、その始まりは自身の父がダンテ研究者であったことを知っていましたか?

 いまでこそ絵画の方が有名ですが、ほんの30年くらい前までは、詩人としての方が有名だったのです。

 日本国内においても、明治の末頃にはロセッティの詩が若者のなかで大流行したそう。

与謝野晶子が詩の中でロセッティを歌い、谷崎潤一郎も自作の中でロセッティの詩集を取り上げています。

 こうした詩を正式に発表するきっかけとなったのは、眼を患ったため。画家としてのその後を悲観し、過去の作品を妻の棺の中から掘り起こした。そして、精神を病んでの悲劇的な末路。

それらを“劇的”ととらえるかはの各自の自由ですが、重度の鬱病になったときの、その壮絶な恐ろしさは、なった経験のある人しか理解できないでしょう。

参考文献

「ロセッティ展」 監修:河村錠一郎 発行:東京新聞 1990

「ラファエル前派 ヴィクトリア時代の幻視者たち」 著者:ローラン・デ・カール 監修:高階秀爾 訳:村上尚子 発行:椛n元社 2001

「ロセッティ ラファエル前派を超えて」 著者:谷田博幸 発行:兜ス凡社 1993