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Francisco de Goya |
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フランシスコ・デ・ゴヤ |
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経歴 1746 スペインのフエンデトードス(サラゴサ)で鍍金師の家庭に生まれる。 1759 画家ホセ・ルサン・マルティネスの工房に。63に修業を終える その後、王立美術アカデミーのコンクールや、その奨学金を申請するが、ことごとく落選。バイェウの工房で働く。 1770 イタリア各地に旅行へ 1771 パルマのアカデミーのコンクールに出品し、評価される その後、帰国し修道院や礼拝堂のための絵画を制作。結婚 1776 宮廷画家の地位を申告 1779 エル・パルド宮のタピストリーのための下絵を国王に献じる 1780 サン・フェルナンド王立美術アカデミーの会員となる 1785 サン・フェルナンド王立美術アカデミーの絵画部門副部長に 1786 国王の画家となる 1789 カルロス4世の宮廷画家となり、肖像画も制作 1791 エル・エスコリアル宮殿の国王執務室のカルトンを制作。翌年、セビーリャに旅行中、病に倒れる。 1793 病は回復するが、聴覚を失う。 1795 サン・フェルナンド王立美術アカデミーの絵画部長に。97に部長職を辞す 1799 銅版画集「カプリチョス」を発行。王妃マリア・ルイサ・デ・パルマの肖像を宮殿で制作 首席宮廷画家となる 1810 ナポレオン美術館に送付する絵画を選択。銅版画集「戦争の惨禍」に着手 1814 摂政府に「ヨーロッパの制圧者に対する我々の輝かしい蜂起の場面と特筆すべき英雄的行いを筆によって永遠化すること」を申し出る。「1808年5月3日」を制作 「裸のマハ」「着衣のマハ」が異端質問所に告発される 1816 銅版画集「タウロマキア(闘牛技)」発刊 1819 マドリード郊外に「聾者の家」を購入 黒い絵シリーズの制作を開始 1824 自由派に対する弾圧から逃れるため神父のもとへ身を隠す 1828 ボルドーにて死去
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<国内で見られる絵画作品・所蔵品>
版画関連の国内書籍といえばこれ… 『ゴヤ ロスカプリチョス 寓意に満ちた幻想版画の世界 国立西洋美術館所蔵』 発行:ニ玄社 <国内で見られる主な版画作品・所蔵品>
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ゴヤの著名な作品といえば、「1808年5月3日、プリンシベ・ピオ丘での銃殺」や戦争を擬人化した「巨人」。 また「戦争の惨害」(戦争の惨禍30番)は、一般市民の被爆を描いた世界最初の作品ともいわれています こうしたことから、とかくゴヤは、“レジスタンス”的なイメージがありますが、実際には、その時にも宮廷画家であり矛盾したポジションを保ち続けていた。 そして、その矛盾が自身を突き動かし、やがて日常のなかに潜む矛盾や真理的暗部を描き出す晩年の作風を生み出していきます 「我が子を喰らうサトゥルヌス」は狂人となったサトゥルヌスが自分の子供を頭から引きちぎって食うという凄惨な場面を描いており、その作品はゴヤ自身の聾者の家の食卓(ダイニング)に飾っていたといいいます。 その光景を想像すると、ちょっと悪寒が走り、とかく精神的に異常をきたしたのでは? と思いがちですが、死を思い感じることによって自分の生を実感し再認識していたのでしょう。まさに、死と向き合ってきた画家といえます。 死の前年には、何気ない若い女性をモデルした「ボルドーのミルク売り娘」を描いています。 <ゴヤ関連の書籍>
参考文献 「ゴヤ――版画にみる時代と独創」展カタログ 編集:雪山行ニ、木下亮 発行:読売新聞社 1999 「プラド美術館展」 発行:読売新聞社 2002 東京富士美術館所蔵品目録 三重県立美術館所蔵品目録
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