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哲学思想どうでしょう マンガ版 |
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はじめに……マンガは独立したストーリーですが、原典の著作内容にある程度リンクした部分があります。リンクしている部分には「注」をつけました。注の部分につきましては(興味のある方は)右側の注欄を参照してください。 (マンガは幾つかの部分に分けて表示されるようにしてありますが、どれくらいの時間で表示されるかは皆さんがご覧になっている環境によって異なります。 ブロードバンド環境なら速いでしょうが…私などは違うので、できる限り画像は軽くしています(その分、画像にムラがある部分もありますが)。それでも時間がかかる場合は…ご迷惑おかけします。ご了承ください それでは…
注8 ※キセルは犯罪行為です。そんなことで自分にキズをつけるのはバカらしいです ※フィクション・ナンセンスです。登場する団体等は事実とは一切関係がありません。 マンガ等:トビー高橋 <ニーチェ関連の書籍>
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今回、私が参照・引用とした原典は 中央公論社発行 『世界の名著 ニーチェ ツァラトゥストラ』 訳:手塚富雄 昭和41年ひ
■注1 『ツァラトゥストラ(はかく語りき)』の中では幾度となく、神が死んだことが語られます。その中でも一番最初に出てくるのがこれ… 「いったいこれはありうべきことだろうか。この老いた超俗の人が森にいて、まだあのことをなにも聞いてはいないとは。神は死んだ、ということを」(ツァラトゥストラの序説 2)
■注2 同書内では、神がどのように死んだのかも説明されています。 「この神々は、『たそがれ』となって死を迎えたのではない、――そう伝える者があるとすれば、それは嘘だ。むしろ事実はこうだ。かれらは大笑いをして、そのために死んだのだ」(ツァラトゥストラ 離反者2) この続きは注4で…(注3はなし)
■注4 では、ツァラトゥストラの言う、神の最後とはどのようなものかといえば… 「その事件が起こったのは、このうえもなく神をなみすることばが一人の神そのものによって言われたときである。――そのことばというのはこうだ。「神は一人あるだけである。おまえはわたしのほかに、いかなる神をもいだいてはならぬ。 ――髭の濃い怒りの神、嫉妬の神が、我を忘れてこう言ったのだ。それを聴いて、神々のすべては哄笑し、めいめいの椅子を揺すぶって、叫んだ。『神々はあるが、唯一の神はない。そういうことこそ、神的なことではないか』と」(ツァラトゥストラ 離反者2)
■補足 では、何故ツァラトゥストラは、大罪を背負ってまで?そんなに神殺しをしたいのかいうと… 「神はひとつの憶測である。しかしわたしは望む、君たちの憶測が、われわれの思考しうる領域に限定されることを。 君たちが一つの神を考えきわめることができるだろうか。答えは否である。――だが、真理への君たちの意志とは、一切を、人間が考えきわめることができ、見ることができ、感知することができるものへと変えようとする意志である。君たちは君たちの感覚でつかんだものを究極まで考え抜くべきだ。 君たちが世界と名づけたもの、それはまず君たちによって創造されねばならぬ。君たちの理性、君たちの心象、君たちの意志、君たちの愛そのものが、世界とならねばならぬ。そしてまことに、そのことが君たちの至福とならねばならぬ。君たちよ、認識する者たちよ」(至福の島々で) 知ろうとしても知れない世界があるとすれば、それは興味深いものではありますが、でも、私たちは結局、この世界で今、生きているのですから、ここで不可知のものをつきつめていくよりも、現在をいかに生きるかを問題にしようよ、ということでしょう。 そして、こうも言っています。 「兄弟たちよ、わたしはあなたがたに切願する。大地に忠実なれと。あなたがたは天上の希望を説く人々を信じてはならない。かれらこそ毒の調合者である。かれらがそれを知っていてもいなくても。 かれらこそ生命の侮蔑者、死滅しつつあり、みずから死毒を受けている者である。大地はこのような者に倦んだ。滅びゆくかれらを滅びるにまかしておくがいい。 かつては、神を冒涜することが最大の冒涜だった。しかし、神は死んだ。そして神とともにそれら冒涜者たちも死んだのだ。こんにちでは大地を冒涜することが、最もはなはだしい冒涜である。そして探究しえないものの臓腑を、大地の意義を崇める以上に崇めることが」(ツァラトゥストラの序説 3) 信じるに値するものは現在の自分であり、また現在が苦しくてもそこで行為し続けることによって将来の自分を(その可能性を)信じることの方が良くないですか? だからこそ、『ツァラトゥストラ』は、生の哲学ともいわれるわけです。 ■注5 同書の中では、創造する者とはどういう者であるかということについても、幾度も語られます。たとえば、そのひとつ… 「この惰眠を破って、わたしは次のことを教えたのだ。何が善であり悪であるか、そのことを知っているのは、ただ創造する者だけだ。 ――そして、創造する者とは、人間の目的を打ち建て、大地に意味と未来を与える者である。こういう者がはじめて、あることが善であり、また悪であるということを創造するのである」(ツァラトゥストラ 新旧の表1) マンガの場合は、とても創造とはいえないものですが…
■注6 ここも、創造するということについて語っているもののひとつです。創造には次のようなことも必要だと… 「しかし思え、わたしの兄弟たちよ。獅子さえ行うことができなかったのに、小児の身で行うことができるものがある。それは何であろう。なぜ強奪する獅子が、さらに小児にならなければならないのだろう。 小児は無垢である、忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力でまわる車輪、始原の運動、「然り」という聖なる発語である。 そうだ、わたしの兄弟たちよ。創造という遊戯のためには、「然り」という聖なる発語が必要である。世界を離れて、おのれの世界を獲得する」(ツァラトゥストラの言説 三様の変化) ちょっとわかりにくいかもしれません。そこで、同書の訳者であり、手塚富雄 氏の名解説を引用すると… 「子供にとって善悪正邪の区別はなく、世界と生における一切は、そのままで肯定される。このことが自由な創造の第一歩である」
■注7 『ツァラトゥストラ』は、ある意味、超人というものに目ざめ、そうした人間になっていこうと行為することの意義を説くことを軸にしています。 ですから、超人とは何かを一口でここで説明する力量は私にはありません。『ツァラトゥストラ(はかく語りき)』を読んでみてください。ちなみに、マンガの原典となった部分は… 「わたしはあなたがたに超人を教える。人間とは乗り越えられるべきあるものである。あなたがたは、人間を乗り超えるために、何をしたか。 およそ生あるものはこれまで、おのれを乗り超えて、より高い何ものかを創ってきた」(ツァラトゥストラ 序説3)
■注8 くだらない結末まで付き合っていただき、どうも。 結局、現在の救済者とは自分自身でありますが、その自分には次のようなことが必要だとツァラトゥストラは言っています 「人間は詩人でもあり、謎の解明者でもあり、偶然の救済者でもある。もしそうでなければ、どうしてわたしは人間であることに堪えられよう。過去に存在したものを救済し、いっさいの『そうであった』を『わたしはそう欲したのだ』に造り変えること――これこそはじめて救済の名にあたいしよう。 意志――それが解放し、喜びをもたらす者の名だ。(中略) いっさいの『かつてそうであった』は、一つの断片であり、謎であり、残酷な偶然であるにすぎない、――だが、創造する意志は、ついにそれにたいして、『しかしわたしはそれがそうであったことを欲したのだ』(意志によって過去を肯定する態度)と言うのだ」((ツァラトゥストラ 救済)
ニーチェの言葉よりPick UP 「しかし、わたしはわたしの愛と希望にかけて君に切願する。君の魂のなかの英雄を投げ捨てるな。君の最高の希望を神聖視せよ」(ツァラトゥストラ 山上の木) |
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