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哲学思想どうでしょう マンガ版 |
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はじめに……マンガは独立したストーリーですが、原典の著作内容にある程度リンクした部分があります。リンクしている部分には「※注」をつけました。注の部分につきましては(興味のある方は)右側の注欄を参照してください。 (マンガは幾つかの部分に分けて表示されるようにしてありますが、どれくらいの時間で表示されるかは皆さんがご覧になっている環境によって異なります。 ※このコーナーはリオタールの思想を解説するものではありません。リオタールの思想に興味を持たれた方は、リオタールの著作の原典をお読みください
※登場する団体・人物等は事実とは一切関係がありません マンガ等:トビー高橋 <リオタール関連の書籍>
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今回、私が参照・引用とした原典は 「ポスト・モダンの条件」 著:ジャン=フランソワ・リオタール 訳:塚原 史 「現代思想 1983年3月号」 発行:青土社
※1 ポスト・モダンとは何か? ということについてリオタールは一言でいうなら次のように記しています。 「ごくかんたんにいえば、「ポスト・モダン」とは、メタ物語への不信のことだ」 “ポスト”というのだから、それではその前にあるモダンとは何か? ということになりますが、それについてリオタールは自身による定義をあげています。 「科学は、みずからのゲームの規則を正当化する義務がある。だからこそ、科学は、その固有のありようのうえに、正当化のための言説をもつのであって、この言説が哲学と呼ばれたのである。こうしたメタ言説が、精神の弁証法、意味の解釈学、合理的主体または労働の解放、富の発展等々の大いなる物語にあきらかに依存しているときには、われわれは、自己正当化のためにそれを手がかりとする科学を「モダン」と呼ぶことにする」
※2 強引にリオタールの考えにつなげるとしたら次のようなこと… 「メタ物語りが終りを告げたいま、いったいどこに正当性が存在しうるだろうか」 このマンガのようなことを、ここにつなげたら身も蓋もないことになってしまいますが…。ポスト・モダンを探る上での姿勢としては、上記のような考え方があった…ということで、ここは流します。
※3 社会というものの機能に対する、それまでの?代表的な捉え方についてリオタールは言及しています。現在が転換を迎えたという立場に立つのであれば必要となることですので… 「この表象は原則として二種類のモデルに分けられてきた。ひとつの機能的全体としての社会と、二つに分裂した社会だ。最初の社会モデルは、…」 「社会がひとつの器官的全体を形成しており、この全体がなければ社会も存在しないという発想は、フランス学派の創始者たちの精神を支配していた。この発想は、機能主義とともに明確なかたちをとり、さらに1950年代にパーソンズが社会を自動制御システムと見なしたとき、またべつのニュアンスをもつようになった」 そして、そうしたものが効力を失い始めた理由などについて… 「個人や集団の欲求や希望と、システムが保障するもろもろの機能との調和は、もはやシステムの働きの付随的な構成部分でしかないからだ」 「つまりシステム自体の効果的運用である。システムの規則が変化し、改革がなされる場合でさえ、ストライキ、経済危機、失業、政治革命などのシステムの故障がべつの選択の可能性を信じさせ、変革の希望を抱かせる場合でさえ、問題となっているのは、システム内部での手直しにすぎず、その結果のシステムの「生命(=生活)」の改良でしかない」
※4 ※3に引き続き、リオタールが考える、それまでのもうひとつの社会機能のモデルは… 「またもうひとつのモデルはマルクス主義の流れによって、示される(階級闘争の原則と、社会の統一をおびやかす二重性としての弁証法を認める点では、一致している)」 その機能の効力が現在では真に有効ではなくなっている理由についても、当然言及しています。 「資本主義のたどりついた運命はよく知られている。リベラルな、あるいは高度にリベラルな管理体制の国々では、これらの闘争とそのための組織は、システムの調整装置に変質した。 分裂の原則の社会的土台である階級闘争が、あらゆる過激さを失うほどまでに曖昧化されている以上、このモデルは結局、理論的受け皿を失い、ひとつの「ユートピア」、ひとつの「希望」でしかなくなってしまう危険にさらされることになった」 そして、※3、※4などのモデルについての共通点と、それが現在ではどのようなことをはらんでいるかということについて補足すると… 「……社会とはひとつの統一的な全体性、ひとつの「単一性」である、という発想だ」 「…一連の諸条件は、システムの維持(もしくは発展)に《貢献》するか、さもなければ、システムの全体性と有効性を傷つけることによって《故障》をひきおこすか…」 「伝統的」理論は、社会的全体性の効果的運用を最適化するための道具として、この全体性のプログラミング中にとりこまる危険にたえずさらされているが、それは、単一で全体性志向の真理を求めるこの理論の願望が、システムの管理者たちのこれまた単一で全体性志向の実践と一致しているからだ」
※5 それまでの(とリオタールが考える)モデルが有効でないとすれば、現在はどのようなものであるのか? 「物語の機能は、大英雄、大災厄、大航海、大目標などの要因を失い、物語ばかりでなく、外示、命令、描写等々の言語活動の諸要素中に霧散霧消してしまい、どの要素も、それ自身に固有なプラグマティックな価値を担うようになった。いまやわれわれは、誰もが、数多くのそうした価値の交差する地点で生きている。 なるほど、自我はちっぽけなものだが、孤立しているわけではなく、これまで以上に複雑で流動的になったもろもろの関係の網の目のなかにとりこまれている。若者でも老人でも、男でも女でも、金持ちでも貧しいひとでも、自我はつねにコミュニケーションの回路の「結び目」のうえにおかれている。というよりは、こういうべきかもしれない――異質なメッセージがつぎつぎに通過する標柱の位置におかれている 言語活動のゲームが、社会が存在するために要求される最小限の関係である」 「だから、現在の社会はニュートン的人間学(構造主義やシステム論のような)にではなく、むしろ分子化された言語活動のプラグマティズムに依拠している。そこには、多様な言語活動のゲームが存在し、さまざまな要素が、不均質な状態におかれているわけだが、それらは、それぞれのネーム・プレートによってのみ制度となる。限定された決定の段階だ」
※6 ※5で出てきた“言語活動ゲーム”のひとつの側面、例としてあげるとすると… 「人間の子どもは、すでに彼をとりまくものによって語られる歴史(=物語)の指向対象としての位置におかれており、この歴史(=物語)とのかかわりにおいて、彼はやがて移動を開始しなければならない。あるいは、もっとかんたんにいえば、社会関係という問いは、文字どおりの問いとしては、やはり言語のゲーム、つまり問いかけのゲームなのであり、この問いを発するひと、それが向けられるひと、そしてその指向対象の位置をただちに決定する。だから、この問い自体がすでに、ひとつの社会関係なのだ」 言語活動ゲームが、リオタールの思想の中心となるわけですが、ここではこれ以上とりあげません(私にはそこまで力量がありません)。興味が湧かれた方は、ぜひリオタールの著作にあたってみてください。 一般的に言われる「知の主要な役割」や「知の批判的機能」といわれることに対する考え方にも言及しています。
リオタールの言葉からPick UP 「ポスト・モダンの知は、あれこれの権力のための、たんなる道具ではない。それは、さまざまな差異にたいするわれわれの感性を洗練させる知、すべてを単一の基準に還元しようとする力に対抗するわれわれの能力を強化する知、なのだ」(「ポスト・モダンの条件」 著:ジャン=フランソワ・リオタール 訳:塚原 史 「現代思想 1983年3月号」 発行:青土社より)
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