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年 代
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ドイツ・プロシアの国内情勢
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1858
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プロシア王フリードリヒ・ヴェルヘルム四世の精神病が悪化。王弟ヴェルヘルムが摂政となる。自身は、自由主義的改革によって民衆からの人気を得ようとした
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1861
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王の死去に伴い、ヴェルヘルムが王位につき、軍制の改革に着手。あくまでも民主的要素を弱め、反革命に役立つように軍を再編していく
こうした改革に自由主義者と国王の対立がつづく。民衆も不満で、議会では自由主義左派が躍進する
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1862
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自由主義者が議会で圧倒的多数を占め、王の軍制改革に反対する
陸相が議会の反対を押さえるために、自由主義に反対の立場をとるビスマルクを呼び王と会見する。それ以前にもビスマルク登用の試みもあったが、外交政策までの権限をビスマルクが要求していたので登用されなかった
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ビスマルクが首相兼外相となり、議会の予算委員会で憲法論争を退け、こう公言する「現在の大問題は演説や多数派の決議によってではなく−−鉄と血によってのみ解決されるのだ!」 憲法上の欠陥を利用して議会を無視して予算を実行し軍備の拡張を断行。議会からの抵抗には停会を続ける
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1864
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ビスマルクはオーストリアを誘い、デンマークに宣戦布告。デンマークの南部エリアはもともとドイツ人が多く、独立運動の気運があった。
デンマークに勝利し、目的としていたデンマークの南部地域を統治下におく。その一部は共同で戦ったオーストリア統治にもなったが、もともとビスマルクは次の戦闘を考慮に入れていた
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1865
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ビスマルクはフランスのナポレオン3世と密談し、プロシアがオーストリアと戦う際には好意的中立を保つ心証を得る。見返りとしてライン地域の土地の割譲が暗に示していた
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1866
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ビスマルクは、当時オーストリアが統治していたヴェネツッアを見返りにイタリアと同盟を結び、オーストリアとの開戦準備を整え終える。
オーストリアと開戦し勝利。北ドイツの主導権を確立した。旧ドイツ連邦は解体し、北ドイツ連邦が成立する(22国)。 これによりビスマルクの地位向上。議会の反対態度も薄れる。ビスマルク自身も、それまで政府が違法であったことを認め、自由主義者からも好意を得る。フランスには土地を割譲せず、関係が悪化
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1868
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スペイン革命が起きる。新しい王にプロシア王家の遠縁にあたるレオポルトをビスマルクが策動で候補にあげ、フランスを挑発。
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1870
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レオポルトが即位。しかし、フランスが圧力をかけ、レオポルトがスペイン王を辞退する。フランス大使がプロシア王のヴェルヘルム1世を訪ね、スペイン王位候補に縁者を立てないことを文書で約束するように求める。王は拒否。この件が公表され、両国で世論が沸き返る
ついにナポレオン3世率いるフランスがプロシアに宣戦する
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1871
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プロシアが圧倒的な勝利。占領下のヴェルサイユ宮殿で、ドイツ諸国の君主を集め、ドイツ帝国成立の儀式を行う。ここに以前よりの悲願、ドイツ統一がなさ、プロシア王ヴェルヘルム1世が初代ドイツ皇帝に。
ドイツ帝国憲法が発布される。この頃、日本でも徳川幕府が倒れ、明治政府はこのドイツ憲法を模す。フランスとフランクフルト条約により、50億フランの賠償金とアルザス・ロレーヌ地方を得る
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賠償金や鉄、石炭の資源に恵まれたアルザス・ロレーヌ地方を得たことにより、ドイツ資本主義は急速に発展していく
ビスマルクも悲願を達成したことにより、対外的には軟化政策をとる。貨幣、郵便制度が改革され、銀行が整えられ、保護貿易主義をとる
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1875
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労働者階級の成長にともない、ドイツ社会主義労働党が組織され、次第に勢力を増していく
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1878
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ビスマルクが「社会主義鎮圧法」を発布、弾圧を加えるが勢力は衰えず拡大
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1888
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ヴィルヘルム1世死去。2世が帝位につく。才気溢れ明晰であるが、虚栄心が強く軽薄な人物だといわれていた
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1890
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ヴィルヘルム2世は、ビスマルクが施行した「社会主義鎮圧法」の廃止を決意する。その裏には政治の世界でありがちな、スローガンによる人民の人気を得て、老ワンマンのビスマルクから自分が完全に権力を掌握することがあった。そしてビスマルクが辞任
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その後、電気・化学で他国を凌ぐ工業国として加速していき、貿易についてもイギリスに次ぐ地位を確立していく
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