美術と近代社会史

 red05_next.gifドイツ連邦・プロシア/19世紀後期

 策士家ビスマルク・ドイツ帝国の誕生/象徴的風景画:ベックリーン、セガンティーニ


  

 

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美術と社会史 近代プロシア・ドイツ連邦目次

美術家DATA 目次

美術家の言葉 目次

ism(美術運動)の証言 目次

絵画の制作技法・構造と効果 目次

 

年 代

ドイツ・プロシアの国内情勢

 

 

1858

プロシア王フリードリヒ・ヴェルヘルム四世の精神病が悪化。王弟ヴェルヘルムが摂政となる。自身は、自由主義的改革によって民衆からの人気を得ようとした

1861

王の死去に伴い、ヴェルヘルムが王位につき、軍制の改革に着手。あくまでも民主的要素を弱め、反革命に役立つように軍を再編していく

こうした改革に自由主義者と国王の対立がつづく。民衆も不満で、議会では自由主義左派が躍進する

1862

自由主義者が議会で圧倒的多数を占め、王の軍制改革に反対する

陸相が議会の反対を押さえるために、自由主義に反対の立場をとるビスマルクを呼び王と会見する。それ以前にもビスマルク登用の試みもあったが、外交政策までの権限をビスマルクが要求していたので登用されなかった

 

ビスマルクが首相兼外相となり、議会の予算委員会で憲法論争を退け、こう公言する「現在の大問題は演説や多数派の決議によってではなく−−鉄と血によってのみ解決されるのだ!」  憲法上の欠陥を利用して議会を無視して予算を実行し軍備の拡張を断行。議会からの抵抗には停会を続ける

1864

ビスマルクはオーストリアを誘い、デンマークに宣戦布告。デンマークの南部エリアはもともとドイツ人が多く、独立運動の気運があった。

デンマークに勝利し、目的としていたデンマークの南部地域を統治下におく。その一部は共同で戦ったオーストリア統治にもなったが、もともとビスマルクは次の戦闘を考慮に入れていた

1865

ビスマルクはフランスのナポレオン3世と密談し、プロシアがオーストリアと戦う際には好意的中立を保つ心証を得る。見返りとしてライン地域の土地の割譲が暗に示していた

1866

ビスマルクは、当時オーストリアが統治していたヴェネツッアを見返りにイタリアと同盟を結び、オーストリアとの開戦準備を整え終える。

オーストリアと開戦し勝利。北ドイツの主導権を確立した。旧ドイツ連邦は解体し、北ドイツ連邦が成立する(22国)。 これによりビスマルクの地位向上。議会の反対態度も薄れる。ビスマルク自身も、それまで政府が違法であったことを認め、自由主義者からも好意を得る。フランスには土地を割譲せず、関係が悪化

1868

スペイン革命が起きる。新しい王にプロシア王家の遠縁にあたるレオポルトをビスマルクが策動で候補にあげ、フランスを挑発。

1870

レオポルトが即位。しかし、フランスが圧力をかけ、レオポルトがスペイン王を辞退する。フランス大使がプロシア王のヴェルヘルム1世を訪ね、スペイン王位候補に縁者を立てないことを文書で約束するように求める。王は拒否。この件が公表され、両国で世論が沸き返る

ついにナポレオン3世率いるフランスがプロシアに宣戦する

1871

プロシアが圧倒的な勝利。占領下のヴェルサイユ宮殿で、ドイツ諸国の君主を集め、ドイツ帝国成立の儀式を行う。ここに以前よりの悲願、ドイツ統一がなさ、プロシア王ヴェルヘルム1世が初代ドイツ皇帝に。

ドイツ帝国憲法が発布される。この頃、日本でも徳川幕府が倒れ、明治政府はこのドイツ憲法を模す。フランスとフランクフルト条約により、50億フランの賠償金とアルザス・ロレーヌ地方を得る

 

 賠償金や鉄、石炭の資源に恵まれたアルザス・ロレーヌ地方を得たことにより、ドイツ資本主義は急速に発展していく

ビスマルクも悲願を達成したことにより、対外的には軟化政策をとる。貨幣、郵便制度が改革され、銀行が整えられ、保護貿易主義をとる

1875

労働者階級の成長にともない、ドイツ社会主義労働党が組織され、次第に勢力を増していく

1878

ビスマルクが「社会主義鎮圧法」を発布、弾圧を加えるが勢力は衰えず拡大

 

 

 

 

 

1888

ヴィルヘルム1世死去。2世が帝位につく。才気溢れ明晰であるが、虚栄心が強く軽薄な人物だといわれていた

1890

ヴィルヘルム2世は、ビスマルクが施行した「社会主義鎮圧法」の廃止を決意する。その裏には政治の世界でありがちな、スローガンによる人民の人気を得て、老ワンマンのビスマルクから自分が完全に権力を掌握することがあった。そしてビスマルクが辞任

 

その後、電気・化学で他国を凌ぐ工業国として加速していき、貿易についてもイギリスに次ぐ地位を確立していく

 

 

 

 

 

 

 

 参考文献

 『現代教養文庫 世界の歴史 10 市民革命の時代』 著:清水博、山上正太郎、赤井彰、相田重夫 発行:社会思想社 1974

 『現代教養文庫 世界の歴史 11 帝国主義への道』 著:石橋秀雄、山上正太郎、相田重夫、清水博、松井透、吉田輝夫 発行:社会思想社 1975

 「世紀末ヨーロッパ 象徴派展」 監修:カトリーヌ・クロエス、フランソワ・ドールト、木島俊介 発行:東京新聞 1996

 麻原雄 「回帰する風景 セガンティーニ」 「美術手帖 1978.3 作家研究2」発行:美術出版社

 池内紀(ドイツ文学者)「新しい時代の大いなる預言者」 『美術手帖1987年3月号 特集 世紀末を射る2つのB』 発行:美術出版社

 

 

  

 

  ドイツ周辺の絵画の動向

 

スイス出身でドイツの美術アカデミーで学んだことのあるベックリーンは、そのエロス的な作品からローマなどから追い立てられていた

ベックリーンはヴァイマールの美術学校で教鞭をとる

 

 

 

 

ドイツもフランス絵画の影響を強く受け、レアリスムの絵画が広まっていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ベックリーンはイタリアへ移住。ロマン主義的様式から脱皮を図るドイツ絵画とは相容れないものがあったが、本質的には次の潮流となる象徴主義的要素を多分に含んでいた

ベックリーンはイタリアでロマン主義的な神話などをモチーフとした「英雄的風景画」の大作を次々と制作していく。その絵画は主に海を舞台とする

 

 

 

 

1880 ベックリーンは代表作であり、自身の作品のなかで最も著名な『死の島』を制作

ベルギーでは後の象徴派となる「二十人会」が設立され、展覧会を行う

セガンティーニは、神を太陽の光とし、舟の上の一組の母と子を聖母子とし、舟の上の羊たちを民衆として象徴した『湖を渡るアヴェ・マリア』を制作。これが評判となり、複製が作られ、多くの家庭の壁に飾られたという。セガンティーニの名はここで確立する

セガンティーニは、イタリアからスイスの山岳地方サヴォーニンへ移住。サヴォーニンの山岳風景を舞台とした心象をうつした風景画を次々と制作していく(象徴主義的作品)。『悪しき母』『生命の天使』

 

 1899 セガンティーニ、山岳の山小屋で急死

 1901 ベックリーン死去