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年代
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ドイツ連邦・プロシアの社会情勢
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ナポレオンのフランス帝国が各地で破竹の連勝を続け、ヨーロッパ全土に脅威を与える
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1806
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西南ドイツ諸国が、独自のライン連邦を形成、ナポレオンの軍門に下る
これを機にプロシアもナポレオンと開戦するが、敗戦しベルリンが陥落する
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1807
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フランス帝国とのティルジット条約により、領土と人口の約半分を失う
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1808
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当時よりコスモポリタンであった詩人のゲーテはナポレオン皇帝と会見し、感心し尊敬したといわれる
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プロシアのシュタイン首相(その後、ハンデンベルグ首相)が、国家存続の危機感を募らせ、国力増強のために、国家機構、地方自治などの諸改革を急速に断行する
農業問題についても、「十月勅令」によって、領主貴族の農民に対する奴隷的な関係を廃止し、資本主義的な農業制度への移行を図る
独自制度であったギルドの独占権の廃止、商業の自由の確立なども進める
フランス帝国をモデルにし、従来の王の部隊から、徴兵制による国民的軍隊も組織
(これらの問題は、まさに明治日本政府が直面した危機感と近い)
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フランスによる占領下の首都ベルリンで、哲学者のフィヒテが、愛国心の高揚を呼びかけ、若者の奮起を期待する。フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』は1808年刊行
教育面でも、ベルリン大学の創設、初等教育に関する国家の監督などの制度ができあがる
こうしてプロシアは、次のナポレオン帝国との戦闘に着々と準備を進めていく
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1813
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ロシア遠征に失敗したナポレオン軍に対し、ロシアと同盟を組み、またオーストリアも加わって戦闘。ドレスデンの戦いに。ライプツィッヒの激戦でも勝利し、フランス軍が退却する
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1814
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連合軍でパリを攻撃し勝利。ナポレオンが退位
戦後ヨーロッパ体制をウィーン会議で話合うが、各国の利害が対立し、一向に進展しない。そのときの名科白が「会議は踊る。されど会議は進まず」
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1815
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長引く会議の最中、ナポレオンがエルバ島を脱出し、フランス本土に戻ったという報告がなされ、ここで初めて諸国が一致しウィーン会議最終議定書が成立。
プロシアは領土を拡大するが、ドイツの35の連邦4自由市はオーストリアが盟主となる
ワーテルローの戦いで連合軍が再度勝利。ナポレオンは再度退位、セント・ヘレナ島に流刑
プロシアはイギリス、ロシア、オーストリアとの四国同盟を結ぶ
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1816
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ドイツ連邦の盟主となったオーストリアは、冷徹な反動政策をとる。以前の諸法令が形骸化し、農民たちは土地所有の機会を失う
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1819
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前年、学生たちがルターの宗教改革300年記念の祭典で自由主義的な行動を起こしたことを機に、オーストリア宰相メッテルニヒがプロシア王と図り、ドイツ大学全ての学生組合の禁止、出版の検閲、教授人事を決定し、ドイツ連邦に押し付けるようになる。カールスバート決議
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1820
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オーストリア宰相メッテルニヒが連邦規約を改め、主権在民を否定
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1830
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フランスで7月革命が起き、その影響がヨーロッパ各地に波及。ドレスデンでも市民暴動が起きる
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1834
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分裂しているドイツは、地方関税などから産業の発達が遅れていたが、プロシアを中心として18邦で関税同盟を設立。国内の統一市場を作りだした。
改革派に対する弾圧が強まる
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ザクセン、ハノーヴァなどで大衆運動を伴う憲法制定がなされるが、メッテルニヒは君主協定を作成して改革運動を弾圧
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1837
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ハノーヴァの新しい王が、自由主義的憲法を廃止したため、ゲッティンゲン大学の七人の教授が罷免。ゲッティンゲンの七教授事件。この中には童話作家で言語学者のグルム兄弟もいた。
この事件がドイツ全域に反響を起こし、教授たちに対する募金運動もおこなわれた
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圧制に対して潜在的な不満が高まり、自由主義を待望する気運が
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1848
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オーストリアのウィーンで革命が起きる。
これを機に、プロシアの首都ベルリンでも民衆が蜂起。国王のヴィルヘルム4世が、言論の自由を認める。自由主義内閣が成立し、普通選挙による国民議会が召集されプロシア憲法を選択
ウィーンの革命はオーストリア軍によって制圧され、専制政治復活
ベルリンでもプロシア軍が国民防衛軍を撃退し占拠する。国民議会は解散されられ、反革命が再び力を握る
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