美術と近代社会史

 red05_next.gifドイツ連邦・プロシア/19世紀前期

 ナポレオン帝国との闘争とウィーン体制/ドイツ・ロマン主義フリードリヒ


  

 

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美術と社会史 近代プロシア・ドイツ連邦目次

美術家DATA 目次

美術家の言葉 目次

ism(美術運動)の証言 目次

絵画の制作技法・構造と効果 目次

 

年代

ドイツ連邦・プロシアの社会情勢

 

ナポレオンのフランス帝国が各地で破竹の連勝を続け、ヨーロッパ全土に脅威を与える

 

 

1806

西南ドイツ諸国が、独自のライン連邦を形成、ナポレオンの軍門に下る

これを機にプロシアもナポレオンと開戦するが、敗戦しベルリンが陥落する

1807

フランス帝国とのティルジット条約により、領土と人口の約半分を失う

1808

当時よりコスモポリタンであった詩人のゲーテはナポレオン皇帝と会見し、感心し尊敬したといわれる

 

 

 

プロシアのシュタイン首相(その後、ハンデンベルグ首相)が、国家存続の危機感を募らせ、国力増強のために、国家機構、地方自治などの諸改革を急速に断行する

農業問題についても、「十月勅令」によって、領主貴族の農民に対する奴隷的な関係を廃止し、資本主義的な農業制度への移行を図る

独自制度であったギルドの独占権の廃止、商業の自由の確立なども進める

フランス帝国をモデルにし、従来の王の部隊から、徴兵制による国民的軍隊も組織

(これらの問題は、まさに明治日本政府が直面した危機感と近い)

 

フランスによる占領下の首都ベルリンで、哲学者のフィヒテが、愛国心の高揚を呼びかけ、若者の奮起を期待する。フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』は1808年刊行

教育面でも、ベルリン大学の創設、初等教育に関する国家の監督などの制度ができあがる

こうしてプロシアは、次のナポレオン帝国との戦闘に着々と準備を進めていく

1813

ロシア遠征に失敗したナポレオン軍に対し、ロシアと同盟を組み、またオーストリアも加わって戦闘。ドレスデンの戦いに。ライプツィッヒの激戦でも勝利し、フランス軍が退却する

1814

連合軍でパリを攻撃し勝利。ナポレオンが退位

戦後ヨーロッパ体制をウィーン会議で話合うが、各国の利害が対立し、一向に進展しない。そのときの名科白が「会議は踊る。されど会議は進まず」

1815

長引く会議の最中、ナポレオンがエルバ島を脱出し、フランス本土に戻ったという報告がなされ、ここで初めて諸国が一致しウィーン会議最終議定書が成立

プロシアは領土を拡大するが、ドイツの35の連邦4自由市はオーストリアが盟主となる

ワーテルローの戦いで連合軍が再度勝利。ナポレオンは再度退位、セント・ヘレナ島に流刑

プロシアはイギリス、ロシア、オーストリアとの四国同盟を結ぶ

1816

ドイツ連邦の盟主となったオーストリアは、冷徹な反動政策をとる。以前の諸法令が形骸化し、農民たちは土地所有の機会を失う

1819

前年、学生たちがルターの宗教改革300年記念の祭典で自由主義的な行動を起こしたことを機に、オーストリア宰相メッテルニヒがプロシア王と図り、ドイツ大学全ての学生組合の禁止、出版の検閲、教授人事を決定し、ドイツ連邦に押し付けるようになる。カールスバート決議

1820

オーストリア宰相メッテルニヒが連邦規約を改め、主権在民を否定

 

 

 

 

 

 

1830

フランスで7月革命が起き、その影響がヨーロッパ各地に波及。ドレスデンでも市民暴動が起きる

 

 

1834

分裂しているドイツは、地方関税などから産業の発達が遅れていたが、プロシアを中心として18邦で関税同盟を設立。国内の統一市場を作りだした。

改革派に対する弾圧が強まる

 

ザクセン、ハノーヴァなどで大衆運動を伴う憲法制定がなされるが、メッテルニヒは君主協定を作成して改革運動を弾圧

1837

ハノーヴァの新しい王が、自由主義的憲法を廃止したため、ゲッティンゲン大学の七人の教授が罷免。ゲッティンゲンの七教授事件。この中には童話作家で言語学者のグルム兄弟もいた。

この事件がドイツ全域に反響を起こし、教授たちに対する募金運動もおこなわれた

 

圧制に対して潜在的な不満が高まり、自由主義を待望する気運が

1848

オーストリアのウィーンで革命が起きる。

これを機に、プロシアの首都ベルリンでも民衆が蜂起。国王のヴィルヘルム4世が、言論の自由を認める。自由主義内閣が成立し、普通選挙による国民議会が召集されプロシア憲法を選択

ウィーンの革命はオーストリア軍によって制圧され、専制政治復活

ベルリンでもプロシア軍が国民防衛軍を撃退し占拠する。国民議会は解散されられ、反革命が再び力を握る

 

 参考文献

 『現代教養文庫 世界の歴史 10 市民革命の時代』 著:清水博、山上正太郎、赤井彰、相田重夫 発行:社会思想社 1974

 『現代教養文庫 世界の歴史 11 帝国主義への道』 著:石橋秀雄、山上正太郎、相田重夫、清水博、松井透、吉田輝夫 発行:社会思想社 1975

『風景画家フリードリヒ』 著:ヘルベルト・フォン・アイネム 訳:藤縄千艸 発行:科書店 1991

千足伸行 <精神の眼>による風景 ドイツ・ロマン主義の現代への問いかけ 「美術手帖 1978年3月号」 発行:美術出版社

『朝日美術館 フリードリヒ』 発行:朝日新聞社 1996

 

  

 

ドイツ絵画の情勢

 

体制とつながる古典主義が中心

ドレスデンを中心として、フリードリヒ、ルンゲ等の画家や作家のティーク、ヴァッケンローダー、哲学者シェリングらがロマン主義的活動を展開していく

 

 

フリードリヒが『山上の十字架(祭壇画)』を制作。宗教画でもなく純粋な風景画でもなく、それでいて祭壇画という性格から、作品に対する論争が起こる。

北の寒々しい何もない海岸に一人の人物が立つ『海辺の僧侶』を制作。

 

フリードリヒは『虹のある山岳風景』などを制作。神や殉教者に変わる新しい時代の自分自身の神?を風景の中に見出していく

 

 

 

詩人のゲーテは美術には保守的で、フリードリヒの作品の新しさを理解・容認できず、批判していたといわれる(1810にはフリードリヒを訪問している)。また、ゲーテは1808年に「ファウスト」の第1部を、1810年には色彩の感覚的現象学の「色彩論」を刊行

 

ナポレオンがドレスデンに滞在しており、フリードリヒはザクセン・スイスのクリッペンに疎開

 フリードリヒ、愛国的な作品『森の中の猟騎兵』をドレスデン美術展に出品

 

 

代表作のひとつである『リューゲン島の白亜岩』を制作

 愛国詩人ケルナーがフリードリヒの作品について詠んだ詩を発表

 

 

フリードリヒは以前より巨大墓石などを描いていたが、より直接的に死を扱った『フッテンの墓』『雪の中の墓地』などを制作

 フリードリヒ、デンマーク王子からの訪問を受ける

 以前にフリードリヒが送った自由主義的・愛国的内容の手紙が問題に

 詩人のド・ラ・モット・フーケがフリードリヒの作品について詩を詠む

フリードリヒ、解放戦争の記念碑や墓石のデザインを数多く手掛ける

 

 フリードリヒ、プロイセン王太子の訪問を受ける

 

 

フリードリヒはその自由主義的発想や政治的な立場から、批判されていく。そして、この頃病状が悪くなり、次第に忘れ去られていく

 

 

 

復権には1906年のドイツ絵画百年展まで待たなくてはならない