美術と近代社会史

red05_next.gifフランス/19世紀前期 

フランス帝国 ナポレオンと戦争画 ダヴィット、ジャン・グロ、ゴヤ

  

 

トップページ/ピースフルアートランドびそう

美術と社会史 近代フランス目次

美術家DATA 目次

美術家の言葉 目次

ism(美術運動)の証言 目次

絵画の制作技法・構造と効果 目次

 


年代

フランス国内の社会情勢

 

周辺ヨーロッパ諸国の情勢

1802

国民の強い支持を背景に、ナポレオンは執政を終身制に

 人気と権力を持った者は無理なことを考えるけど、その無理もあっさり受け入れられたりするわけです。いつの時代でも…。

レジョン・ドヌール勲章の制定

 勲章はオモチャみたいなものでも、やっぱり名誉・栄誉欲から大人も時には心惹かれることをうまく活用するために

 

 

1803

英国と交戦状態に

 

英国によるナポレオン暗殺計画失敗

1804

新憲法発布。正式に皇帝ナポレオン1世となる。戴冠式。ジョセフィーヌの戴冠として有名だが、ジョセフィーフは09年には離婚される。

 国民は安定を望む。それは強い政権とイコールと考えられやすい。よって革命によって得た民主主義は知らず知らずの間に軍事独裁政権下に。ベートーヴェンは交響曲「英雄」を作り上げていたが、ナポレオンの別の顔に期待は裏切られる。

 

 

 

 英国本土上陸作戦を目指す

トラファルガーの海戦で英国に破れ、制海権奪取ならず

 

英国、フランスの作戦をくじく。

地中海の西端、スペインとモロッコ沖でフランス帝国軍とトラファルガーの海戦と勝利

1805

ウィーン侵攻で圧勝

 

ロシア・オーストリア軍、ウィーン侵攻を止められず敗退

1806

国外戦闘での勝利を続ける

 

西南ドイツ、フランス帝国支配下に。プロシア軍も敗れ、ベルリン陥落

1807

ヨーロッパの大部分がフランス帝国支配下に(オランダ、ベルギー、イタリア、ドイツ、ポーランドに支配者を配置)

 

 ロシア軍も2度敗退

1808

英国を経済的に倒そうと大陸封鎖(他ヨーロッパ諸国に英国との貿易・通商を禁止)を行う

 

 密貿易が行われる

 

 大陸封鎖に従わないポルトガル制圧へ向かう。

スペイン王国の内紛を利用してスペインも制圧。ナポレオンは実兄を王として配置。

 

 

 

 スペインの抵抗に、やがて帝国軍は消耗していく。

 

 スペイン民衆の反抗。自らの命を犠牲にしての徹底したゲリラ戦が始まる。

長い民族的抵抗が始まる。その一部始終を体制側の立場にあったゴヤが戦争画を克明に描く。

1810

オーストリア帝室より皇女マリー・ルイズを迎えナポレオン1世結婚。同年、愛人マリー・ヴァレウスカも男子出産。翌年、ルイズが男子出産。ローマ王と呼ばれる。革命の申し子も政略結婚やその名称など懐古趣味・保守化が進んだ証明ともいわれる

 

 

1812

約60万という「大陸軍(混声舞台)」でロシア遠征。

 

ロシア軍も積極的な戦闘はせず、橋などを壊しながら退却する持久戦に出る

 

 ロシアの象徴でもあるモスクワ入場を果たす。しかし、ロシアの戦術により郊外へ退去。

 

 ロシア自らによる焦土戦術。ナポレオン1世が入場したモスクワの街に自ら火をつけ炎上させる。

 

 講和にならず、退却する。しかし、装備が手薄だったため、冬の厳しさに大陸軍は退却しつつも飢えと病で多くの兵を失う。

この時いつもの冴えがナポレオンになかったというが、敗れた時にはその後、全てが否定されやすいものである

 

 ナポレオンがモスクワの街を焼いたとして、国民の反感・団結が強まる

こうした手法は、よく用いられる。国家は経済ではなく、民族である限り反発心は当然である

1813

決戦で敗れ、フランス軍退却

 

ロシア、オーストリア、プロシア連合軍は、ライプツッヒの決戦で戦略勝ち。

1814

皇妃マリー・ルイズ、ローマ王とともにパリ逃亡。

 

英国もイベリア半島からピレネー越えを。

 

パリで降伏

 

連合軍、パリ攻撃

 

退位書に署名。服毒自殺を図るも未遂となり、次なる運命を感じることに。

こうした運命論は、確固とした思い込みと信念を作り、次を動かすものである

 

臨時政府を設立。ナポレオンの廃位を宣言。

無理やりの力で得たものは、結局他の力で全てを失うのが常ですな。

 

エルバ島へ流刑。

皇帝称号を許され、年金の支給、島の統治など緩やかな処置。

 

ルイ18世による王政復古。

亡命貴族たちの帰国と保守化。

敗戦国としての平和に、ナポレオンをなつかしむ声が早々に聞こえ出す

1815

ナポレオン、エルバ島脱出。

兵1,000名を連れてフランス東南端に上陸。ほとんど抵抗を受けず、軍はナポレオンにつぎつぎとつく。

流血、発砲もなくパリ入場を果たし、再度フランスに君臨。

 

ルイ18世、ナポレオンの報を知り、ベルギーに亡命。

再度、ヨーロッパ諸国で対フランス同盟が結ばれる

 

ワーテルローの戦い、激戦も敗れる。

ナポレオンは国民総動員で闘いを考えるが、議会勢力やヨーロッパ連合勢力が抵抗。

皇帝再び退位(100日皇位)

 

ワーテルローの激戦を制す。

ナポレオンのアメリカ亡命を英国が阻止。セントへレナ島へ流刑にする。

1821

ナポレオン、セントへレナ島で死す(51歳)

 

英国の好意でナポレオンの遺体は祖国へ戻る(1840)

 

 

 

 

 ●参考文献

 「世界の歴史 10 市民革命の時代」 執筆 清水博、山上正太郎、赤井彰、相田重夫/社会思想社刊 発行:教養文庫 1974

 「西洋美術館」 発行:小学館  1999

 「ゴヤ 版画にみる時代と独創」 発行:読売新聞社 1999(展覧会図録)

 「西洋絵画史WHO’S WHO」 発行:美術出版社 1996 

 「巨匠に教わる絵画の見かた」 発行:資格デザイン研究所 1996

 

  

 


  フランス絵画の動向 

 新古典主義の隆盛

 1802

ジャン・グロはナポレオンを“革命の申し子”として煽動するような肖像画「アルコレ橋上のボナパルト」を既に描いている。旗を左手に持ち、右手の剣を突き出し、毅然とかつ艶やかな威厳をたたえた表情の青年が、真っ暗闇の戦場を突き進んでいく。

 

 政治活動、言論の自由は押さえられ、美術、文学も国に奉仕することとなる。

これは100年後のファシズム政権(帝国主義)と同様。

 1804 ダヴィット「皇帝ナポレオン1世と皇妃ジョセフィーヌの戴冠式」は、ナポレオンの戴冠式の意図を充分に汲み取って描かれた記録的寓話画。現実の戴冠式とは異なり、さまざまな点で美化・補足されている。

 ダヴィット「ヤッファのペスト患者を見舞うボナパルト」は、軍内に流行ったペスト患者を恐れずに尋ね、裸に近い患者の体に触れるというキリストの奇跡にも似せた場面を描く。その色彩はドラクロワなどの次世代画家にも影響も…

 

 1806 ジャン・グロはロシア軍を撃破しつつ、敵にも慈悲深い皇帝という姿の戦争画「アイラウの戦場におけるナポレオン」を描く。

ダヴィット「アブキールの戦い」は、白馬にまたがったナポレオンが、戦陣の先頭に立ち敵軍を蹴散らしていく様を、スポットをあてたような明暗の色調で描く。

 

 

 

 

 

 1809 ゴヤはナポレオン軍に立ち向かった民衆との闘争場面「1808年5月2日、エジプト人親衛隊との戦闘」を描く。

そして、フランス帝国軍に蜂起民衆が銃殺されていく中、それでも両手をひろげて抵抗を続ける場面「1808年5月3日、プリンシベ・ピオ丘での銃殺」、戦争を擬人化としたものともいわれる「巨人」を描く。

 

 しかし、ゴヤは宮廷画家であり、その行動は一貫せず、矛盾を抱えたままとなる。ナポレオンの兄の新国王を称える「マドリード市の寓意」なども制作(青年のような天使たちが舞い、ラッパを吹き、女神のような女性が(王の肖像があるべき場所)を指差して微笑むもの)。また、ナポレオン美術館開設に向けての作品選別にも加わる。

 

 ゴヤの戦争をより克明に描いたものは版画「戦争の惨禍」。フランス帝国軍の略奪、強姦、むごたらしい処刑、それに立ち向かう女性、争い逃げまどう民衆など、戦争の理性のない残忍さを告発する作品を多数制作。

また、その中の「戦争の惨害」(戦争の惨禍30番)は、一般市民の被爆を描いた世界最初の作品ともいわれる。

冷徹に見つめられた作品は写実的でありながら、ゴヤの意思をその構図で明確に示す。これらの版画は国立西洋美術館が所蔵しており、国内で見られることも。または下記参考文献をどうぞ。

 

当時、描かれたナポレオンの肖像画には、でっぷりと肥満し、髪がうすくなった疲れ果てた中年として描かれたものもある。

 アングルも1806頃にナポレオン1世の肖像画を描いているが、この頃、今度はルイ18世の大使で王政復古の立役者となったブラカス伯爵のために「お目通りを許されたスペイン大使を前に王子たちと遊ぶアンリ4世」を描く。スペイン大使が来ているのに、子供を馬乗りにさせたままあやしている、というまるでスペインをおちょくっているような絵であるが。それとも親愛の情?

 

ダヴィットはナポレオン失脚後、ブリュッセルへ亡命。その後(1825)客死。

ゴヤ、1828死去

ジャン・グロは次第に忘れられ、1835に自殺