美術と近代社会史

red05_next.gifフランス/1816〜1840年代末 

七月革命 新古典主義アングルとロマン主義ドラクロワ

  

 

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美術と社会史 近代フランス目次

美術家DATA 目次

美術家の言葉 目次

ism(美術運動)の証言 目次

絵画の制作技法・構造と効果 目次

 

フランス国内の動き

年代

ナポレオン失脚、セントへレナ島に流される

ウィーン会議(オーストリア、プロシア、イギリス、ロシア)による前後処理が決定

 

 

 

1815

ルイ18世が即位。王政復古へ。

二院制の議会となるも帝政期に亡命していた貴族が多数進出。「ウルトラ(過激王党)」と呼ばれ、他国からの干渉もあり下院を解散。

1816

 

駐屯していた外国軍隊が撤退する

 

 

 

 

1818〜1819

王位継承者の暗殺事件を契機に、一時沈黙していた「ウルトラ」が、政府の中心であった純理派を追い落とし、長期政権となる。僧侶と結んで自由主義者弾圧へ。

1820

 

ルイ18世が死去。ウルトラの首領であり、王弟がシャルル十世として即位

 

 

 

 

1824

反対勢力を押さえるため、シャルル十世は議会を解散。干渉選挙を行うが、政府側が大敗。そこで戦闘的な内閣を任命して混迷の打開を考えるが、反対に議会制否認、独裁への画作としてさらに反発を招く。

財界一部ではルイ13世の子孫で農場経営で成功したルイ・フリップを中心にすえて、立憲王政を立て直そうとする動き

1827

 国王と議会が対立。国王は議会を解散され、干渉選挙も敗北。

アルジェリア占領の対外成功とともに強権を発令。定期刊行物の自由の禁止、下院議会の再度解散、選挙人及び資格者を地主納税者だけとするなどの「七月勅令」を出す。

パリ市民反政府側はデモからバリケードをつくる。軍隊が出動するも抵抗し、市街戦は激化。軍隊を圧倒。王はイギリスへ亡命。のちにいわれる「栄光の3日間」の七月革命

 1830

 

ルイ・フリップが担ぎ出されて七月王政に。イギリス流の立憲王政となり、人民主権となる。

フィリップは「バリケードの王」と称され、民衆から当時は人気を得るが、その実、選挙権は納税額によって制限される少数の金持ち支配の政府

 

 

 

議員買収も常となり、新興資本家層、産業革命による労働者層が中心の反政府勢力が「革命宴会」運動。刊行物などで社会主義思想も広まる

 

 

 

 国際的恐慌と凶作で失業、物価が上昇。政府は無策。不況に苦しむ小企業家、職人、商店主らがデモを始め、やがてバリケードが作られる

軍隊が出動し警備軍隊が民衆に一斉射撃し、民衆が反撃。支庁を占拠し、フィリップ退位。二月革命

臨時政府樹立し、第二共和制発足。普通選挙制、言論結社の自由、奴隷制の廃止。三色旗が国旗となる

1847

 

 

 新古典主義とロマン派の比較

 

 新古典主義

 

 ギリシアやローマの神話、伝説などをテーマに求める

テーマ

単一(タッチが残らず)で直線的、線としての純化したフォルム、安定した伝統的構図

描き方と構図

清廉で温和な色彩、静的で冷ややかな色感

色彩

静的な形式美による永遠不動を目指す技術

 

 ●参考文献

 「世界の歴史 10 市民革命の時代」 執筆 清水博、山上正太郎、赤井彰、相田重夫/社会思想社刊 発行:教養文庫 1974

 「世界の歴史 11 帝国主義への道」 執筆 石橋秀雄、山上正太郎 /社会思想社刊 発行:教養文庫 1974

 「西洋美術館」 近代T 編集委員 千足伸行 発行:小学館  1999

 「新潮美術文庫20 ドラクロワ」 解説 富永惣一 発行:新潮社 昭和50年

 「西洋絵画史WHO’S WHO」 発行:美術出版社 1996 

 「巨匠に教わる絵画の見かた」 発行:資格デザイン研究所 1996

 

 

 

  

 

フランス絵画の動き

1815新古典主義が、次第に形骸化、保守化傾向に陥る。

ナポレオンの主席画家であり、新古典主義のダヴィットが追放される

この前年、アングルは代表作のひとつ「グランド・オダリスク」をナポレオンの妹でナポリの王妃から注文を受けて描く。麗美な曲線、陶器のような肌、横たわる裸婦の一瞬の様子を動かない時間の中に閉じ込める

 

1816 ロッシーニの歌劇・オペラが上演。音楽界では、すでにロマン主義が現れている

 

 

1818 ジェリコーが実際に米国で起こった事件(遭難し筏で漂流/13日目に発見。多くの死者を出し、筏内での惨劇もあったとされる)をもとに1年をかけて描きあげた「メデュース号の筏」をサロンに出品。

伝統的な歴史画でも宗教をテーマにしたのでもなく、無名な人々を主人公として扱うという革新性が、ロマン主義の先駆けといわれる。しかし、同時代の事件を扱うという意味は、ダヴィットらの戦争画の延長線上にある。それよりも筏の上での死者、救出船を波間に見つけた者の歓喜、すがるような安堵感を夕日でライトアップしたような色彩で情感を煽る姿勢がロマン主義のはじまりとなる。

 

 

1824 海外のギリシアでは1821から独立戦争が勃発。ジェリコーのアトリエ仲間でもあったドラクロワが、ギリシア独立戦争の惨状(トルコ軍による島民殺害、女の略奪、家屋の焼き払い)を主題とした「キオス島の虐殺」をサロンに出品。そこには、新古典派の優美さ・気品、整然とした構図はどこにもなく、罵倒、酷評される。

同じサロンにアングル「ルイ13世の誓願」を出品。政府が直々にイタリアにいたアングルを招聘し、新古典派絵画の凋落に歯止めをかけようとしたもの。

ここに、新古典派とロマン主義が拮抗する。

ジェリコーが落馬の傷がもとで32歳で死去。必然的にロマン主義はドラクロワに託される

 

アングル、レジオン・ドヌール勲章を受章。新古典主義の指導者と見なされる。

ドラクロワ、英国詩人バイロンの詩に発想を得て古代アッシリア王の滅亡を前にした狂乱的場面「サルダナパールの死」を描く。強烈な色彩と、交錯する人物たちの構図が極めて動的。ロマン主義の旗手とみなされていく

 1830ドラクロワ、この七月革命を題材とした「民衆を率いる自由の女神(7月28日)」を描く。政治的背景の意図はなく、自由に対する共感を描いたとされる。

ただし、女神が持つ三色旗は、帝政・革命時などに使用されていたもので、当時は、まだフランスの国旗ではない。

アングル、前年にエコール・デ・ボザール(美術学校)の教授に就任。しかし、時代はロマン主義に傾き、評判は好意的とはいえない

 

 ドラクロワ、政府使節団に随行し、北アフリカへ。モロッコ、アルジェリアなどのエキゾティックな風物をスケッチするとともに、地中海地方の明るく鮮やかな光・色彩を獲得。「アルジェの女たち」など

アングル、パリ画壇から離れることにし、ローマのフランス・アカデミーの院長に就任

 ドラクロワ、音楽家ショパンの肖像を描く(当時、ドラクロワ40歳、ショパン28歳)。また彼の充実期。「タイユブールの戦い」「ハムレットと墓掘り」「怒るメディア」などを制作

既にシェイクスピアやダンテなどの文学が絵画にも大きな影響を与えている。<ハムレット><オフェーリアの話><神曲>など文学作品から着想を得た作品を制作

アングル、ローマより帰国。貴族、政府からの歓迎され、数多くの注文を受ける。マニエリスム的なデフォルメをみせる「ドーソンヴィル伯爵夫人の肖像」など、自身が心酔していたラファエロ的な優美な要素がさらに加わる。

 

 1840年代初頭よりドラクロワは、健康を害し、制作活動が少なくなる。二月革命にも関心を示さず。礼拝堂などの装飾壁画の仕事が中心。また、キリストを主題とした作品が多くなる。

 

ドラクロワ、1855のパリ万博で回顧展が開催される。同年、レジオンドヌール勲章受賞。1863死去。 

アングル、1855のパリ万博で、回顧展が開催される。その後も、「泉」(1856)「トルコ風呂」(1862)などの作品を描き、円熟を加えながら、新古典主義の代表として保守層から熱烈の支持を受け、ナポレオン3世の第二帝政末期まで活躍する。1867死去。

 

 

 ロマン主義

古今の文学(近世文学)、歴史などから自由にテーマを選ぶ

曲線を多様、交錯、混沌としたフォルム、不規則で不安定な“動き”を強調した構図

鮮やかで明るい色彩、熱度のある色感

躍動する生命感を創出する感情表現