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フランス絵画の動き
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1815新古典主義が、次第に形骸化、保守化傾向に陥る。
ナポレオンの主席画家であり、新古典主義のダヴィットが追放される
この前年、アングルは代表作のひとつ「グランド・オダリスク」をナポレオンの妹でナポリの王妃から注文を受けて描く。麗美な曲線、陶器のような肌、横たわる裸婦の一瞬の様子を動かない時間の中に閉じ込める
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1816 ロッシーニの歌劇・オペラが上演。音楽界では、すでにロマン主義が現れている
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1818 ジェリコーが実際に米国で起こった事件(遭難し筏で漂流/13日目に発見。多くの死者を出し、筏内での惨劇もあったとされる)をもとに1年をかけて描きあげた「メデュース号の筏」をサロンに出品。
伝統的な歴史画でも宗教をテーマにしたのでもなく、無名な人々を主人公として扱うという革新性が、ロマン主義の先駆けといわれる。しかし、同時代の事件を扱うという意味は、ダヴィットらの戦争画の延長線上にある。それよりも筏の上での死者、救出船を波間に見つけた者の歓喜、すがるような安堵感を夕日でライトアップしたような色彩で情感を煽る姿勢がロマン主義のはじまりとなる。
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1824 海外のギリシアでは1821から独立戦争が勃発。ジェリコーのアトリエ仲間でもあったドラクロワが、ギリシア独立戦争の惨状(トルコ軍による島民殺害、女の略奪、家屋の焼き払い)を主題とした「キオス島の虐殺」をサロンに出品。そこには、新古典派の優美さ・気品、整然とした構図はどこにもなく、罵倒、酷評される。
同じサロンにアングルが「ルイ13世の誓願」を出品。政府が直々にイタリアにいたアングルを招聘し、新古典派絵画の凋落に歯止めをかけようとしたもの。
ここに、新古典派とロマン主義が拮抗する。
ジェリコーが落馬の傷がもとで32歳で死去。必然的にロマン主義はドラクロワに託される
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アングル、レジオン・ドヌール勲章を受章。新古典主義の指導者と見なされる。
ドラクロワ、英国詩人バイロンの詩に発想を得て古代アッシリア王の滅亡を前にした狂乱的場面「サルダナパールの死」を描く。強烈な色彩と、交錯する人物たちの構図が極めて動的。ロマン主義の旗手とみなされていく
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1830ドラクロワ、この七月革命を題材とした「民衆を率いる自由の女神(7月28日)」を描く。政治的背景の意図はなく、自由に対する共感を描いたとされる。
ただし、女神が持つ三色旗は、帝政・革命時などに使用されていたもので、当時は、まだフランスの国旗ではない。
アングル、前年にエコール・デ・ボザール(美術学校)の教授に就任。しかし、時代はロマン主義に傾き、評判は好意的とはいえない
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ドラクロワ、政府使節団に随行し、北アフリカへ。モロッコ、アルジェリアなどのエキゾティックな風物をスケッチするとともに、地中海地方の明るく鮮やかな光・色彩を獲得。「アルジェの女たち」など
アングル、パリ画壇から離れることにし、ローマのフランス・アカデミーの院長に就任。
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ドラクロワ、音楽家ショパンの肖像を描く(当時、ドラクロワ40歳、ショパン28歳)。また彼の充実期。「タイユブールの戦い」「ハムレットと墓掘り」「怒るメディア」などを制作
既にシェイクスピアやダンテなどの文学が絵画にも大きな影響を与えている。<ハムレット><オフェーリアの話><神曲>など文学作品から着想を得た作品を制作
アングル、ローマより帰国。貴族、政府からの歓迎され、数多くの注文を受ける。マニエリスム的なデフォルメをみせる「ドーソンヴィル伯爵夫人の肖像」など、自身が心酔していたラファエロ的な優美な要素がさらに加わる。
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1840年代初頭よりドラクロワは、健康を害し、制作活動が少なくなる。二月革命にも関心を示さず。礼拝堂などの装飾壁画の仕事が中心。また、キリストを主題とした作品が多くなる。
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ドラクロワ、1855のパリ万博で回顧展が開催される。同年、レジオンドヌール勲章受賞。1863死去。
アングル、1855のパリ万博で、回顧展が開催される。その後も、「泉」(1856)「トルコ風呂」(1862)などの作品を描き、円熟を加えながら、新古典主義の代表として保守層から熱烈の支持を受け、ナポレオン3世の第二帝政末期まで活躍する。1867死去。
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ロマン主義
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古今の文学(近世文学)、歴史などから自由にテーマを選ぶ
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曲線を多様、交錯、混沌としたフォルム、不規則で不安定な“動き”を強調した構図
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鮮やかで明るい色彩、熱度のある色感
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躍動する生命感を創出する感情表現
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