美術と近代社会史

 red05_next.gifイギリス/19世紀初頭

 ウィーン体制  ふたつの風景画 ターナーとカンスタブル

  

 

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美術と社会史 近代イギリス目次

美術家DATA 目次

美術家の言葉 目次

ism(美術運動)の証言 目次

絵画の制作技法・構造と効果 目次

 


 産業革命をテイク・オフさせたイギリスは、その技術で制海権を握り、世界No1の工業国として活発にヨーロッパ大陸との貿易を行っていた。しかし、フランスにナポレオンが現れた頃より、イギリスは激動期を迎えることとなる。  

 

年代

英国内の社会情勢

 

 

1793

ルイ16世を処刑したフランス政府が宣戦布告。同じく宣戦布告されたオランダ、スペイン、イタリアとともに第一次対仏同盟を結成する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1804

フランスのナポレオンの勢力拡大とともに、ロシア、オーストリアと対仏同盟を結ぶ

 

トラファルガーの海戦。帆走戦艦時代の最後の大規模海戦。ここでネルソン提督が型破りの戦術に出る。それまでは敵艦隊と並行して砲火を交えて戦うのが普通であったが、ここでは縦陣をとって敵艦隊の横に突っ込む作戦をとる。これが効をそうして、イギリス軍が完勝。

 

しかし、ネルソン提督は、胸に4つの勲章をつけ、将官の服装をしたまま(回りはいさめようとしていたのだが)指揮をとっていたため、フランスの狙撃兵に撃たれ、甲板下の狭い治療室で死去。

 

 

1806

フランスのナポレオンは地上戦においては、オランダ、ベルギー、イタリア、ドイツ、ポーランドに連戦連勝。英国内でのナポレオンの驚異は更に高まる

1807−08

ナポレオンは、トラファルガーの戦いに敗れたことで英国本土の上陸作戦はあきらめていたが、そのかわりに大陸封鎖を実施。英国は他国と貿易ができなくなり、経済的な打撃を受ける。特に穀物や工業原料をヨーロッパ大陸から輸入していたため、深刻な状態となる。

1808

イギリスと経済的に深い関係をもっていたポルトガルはナポレオンの大陸封鎖にも反発。ナポレオンの侵攻に対するレジスタントの抵抗。(ナポレオンと戦争画のゴヤを参照)。イギリスは、ポルトガルに武器を送り、レジスタントを援助。

 

 

1810−11

経済的な危機状態となる

 

 

 

(ナポレオンはロシア侵攻に失敗した後、ロシア、プロシア、オーストリア連合軍にライプツィッヒの決戦で破れる)

1814

ショーモン条約をロシア、プロシア、オーストリアと結びパリを攻撃。ナポレオンは退位。

 

ヨーロッパ諸国は、ウィーン会議で、新体制を話し合うが、利害関係が噛み合わず足踏みをつづける

1815

ナポレオンがエルバ島脱出の報告が入り、再度、対仏同盟を結成。ワーテルローの戦いでナポレオンを破る

 

ウィーン体制時代に。

ヨーロッパ諸国とイギリスは若干の対立はあっても、農業と工業の国際分業の関係ができあがっていたため、平和的共存の関係で進む。

1819

選挙法改正に集まった民衆数万人を政府が弾圧し、死者や負傷者が多数でる

 

既に進出を果たしていたインドに続き、シンガポールにも進出する。

 

 

 

 

 

1830

フランスの7月革命の影響もあり、選挙法改正の運動もさらに高まる。それは、イギリスの選挙制度が中世末のままであり、どこの国も、その後経験するような、議員の世襲、売買があり、また地主たちにあった選挙権も実質的には指名選挙的あったという背景がある。

また、当時は産業革命の影響もあり、人の移動が激しくあり、そのため田園化している過去の都市から多くの議員が選出され、新興大都市からは議員が選出されないなどの不合理が生じていた。こうした状態に怒ったのが、新興の資本家や労働者たちである。

1831

これまで選挙法改正を弾圧してきた保守的なトーリー党にかわり、自由主義的なホィッグ党が躍進。

選挙法改正案を出すが、下院で通貨するが貴族的な上院では否決され、ホイッグ党のグレー内閣が辞職した。保守的なトーリー党が組閣をしようとするが、民衆が反発し、革命前夜的な混乱に陥る。

トーリー党も内乱を避けるため、組閣を断念し、再度ホイッグ党が組閣に。

1832

 選挙法改正なる。これにより選挙権所有者は43万人⇒65万人に拡大。選挙区も人口に比例するようになる

1833

イギリス所有の植民地の奴隷制度が廃止される

 

政治運動とともに、労働者の過酷な現実も問題となり、工場法も成立していく。いかに過酷かといえば、ある紡績工場務めの女性は、6歳で働きはじめ、朝5時〜夜9時まで働くことが半年も続き、13歳位から体の奇形が始まった人もいるという。日本の女工哀史(野麦峠での話ではないが)的なものがイギリスやフランスでもあったわけである。ただし、こうした深刻な労働運動に取り組んだ、良心的な資本家ロバート・オーウェンなど(自ら工場を経営しても、その環境と設備に注力し、幼稚園などを設立して教育にも力をいれた)もでてきている。

 

選挙法改正も大衆には、ほとんど報いるものがなかったために、チャーティスト(憲章派)という運動がはじまる。

1838

運動の盛り上がりとともに、「人民憲章(ピープルズ・チャーター)」の綱領が作られる。その内容は、男子普通選挙、平等選挙区制、無記名投票、披選挙資格から財産条件を除く、歳費制、議会の毎年の改選。こうした普通選挙制の実現には、まだ半世紀ばかりかかってしまうのだが…。

 

ウィリアム4世が前年に死去し、王位継承権が女性のビクトリアにまわってくる。戴冠式を行い、彼女は18歳にして国王となる。もちろん、まだ独身のまま。

イギリスの30年代は、まさに<鉄道と蒸気船の時代>鉄、石炭の産出量は1810年代の3倍に。

 

 

 

 ●参考文献

 「世界の歴史 10 市民革命の時代」 執筆 清水博、山上正太郎、赤井彰、相田重夫/社会思想社刊 発行:教養文庫 1974

 「イギリスの詩情 コンスタブル展」監修:千足伸行 発行:読売新聞社 1986(執筆 デニス・サットン 自然と情熱:ジョン・コンスタブルの芸術/グレアム・レイノルズ コンスタブルの芸術の展開/千足伸行 雲と虹の詩学)

 「テート・ギャラリー所蔵 ターナー展」編集:横浜美術館、福岡市美術館、名古屋市美術館、東京新聞 発行:東京新聞 1997 執筆:デイヴィット・B・ブラウン ターナーの生涯と芸術 / 新畑泰秀 J.M.W.ターナーの<大洪水>「黙示的崇高」の主題にみる伝統と創意

 「西洋美術館」 発行:小学館  1999

 

 

  

 


 絵画の階級の最上位には歴史画があり、風景画が最も地位の低いものであった。しかし、17世紀オランダ風景画の輸入と、貴族階級によるイタリアへの教養的旅行(グランド・ツアー)や、一般のヨーロッパ大陸旅行などからピクチャレスクな風景が人気を呼ぶようになっていた。そこから理想的風景画とは異なる風景画が出現してくる。

英国絵画の動向

 

1793頃 ターナーは水彩画家として、ピクチャレスク(※下記参照)な版画の下絵などを提供。建築事務所で設計図や彩色法、建築立体図の描き方などを学んでおり、その確かさから地誌的風景画家としての評価を確立

 ターナー、当時ブームでもあったフランスなど大陸へ渡る旅行に。ただし、訪れた場所は貴族らの観光客とは異なり、スイスや仏南東部ザヴォワ地方の険しい山々が中心で、数多くのスケッチを行う。崇高の美(※下記参照)を模索する

 

 1802 カンスタブルは「デダムの谷」を制作。見たとおりの自然を忠実に再現しようとした風景画。後の28年に再度同じ「デダムの谷」を同じ構図で描く。その両作品の大きな違いは、背景?の空と雲。穏やかであった雲は、沸き立ち、迫ってくるような動きを持つ。その違いだけで、この同じ構図の絵は、まるで違う印象と解釈を与える。

 

 1805 既にアカデミー会員となっていたターナーは、プッサンやミケランジェロ、ラファエロなどの巨匠が描いていた聖書のモチーフ「大洪水」を描く。天変地異のさなか濁流が人々に迫る。それまでの巨匠たちの作品とは、自然の驚異、人が対抗できない圧倒的な力を描いた点で大きくことなる。<崇高の美>を考えていたターナーの到達点のひとつ

 

1805 ターナー、「仏英でのトラファルガーの海戦」を描く。多くの画家が同一の主題に挑戦したが、他の画家たちが船内でのネルソン提督の死の場面を描くのに対して、ターナーは戦闘中にネルソンが狙撃兵に撃たれた場面を描く。英仏の船は至近距離で合い対し、狙撃兵の銃口からは煙も立ち上る。この中でフランス国旗が英国甲板上に引きづりおろされているなど、海戦の結果などの暗喩も盛り込まれている

 

 

 

 

 

 

 カンスタブルはサフォーク州でのスケッチに浸る。歴史的風景画ではなく、またブームでもあるピクチャレスク的な風景でもない、身近な田園風景をありのままに描く。

1812 ターナー「吹雪−アルプスを越えるハンニバルとその軍隊」を描く。暗雲と風が猛然と荒れ狂い兵士たちに襲いかかる。ハンニバルのその後の運命を啓示する意味が込められ、<歴史的風景画>の頂点に達する。

 

 ターナーは、地誌的出版物のための版画の原画(水彩)を多数描き出版される(概ね1810〜35年間)

 

1817 当時の芸術家の最大の登竜門であるローマ賞に、歴史的風景画部門が新設され、ここにきて風景画の地位が向上していく。

 

1820〜 カンスタブルは、雲の習作を多数制作。当時は気象学の研究が盛んであり、その影響がある。カンスタブルは、科学的な探求も絵画芸術には必要であると考えていた。俗にいわれる<SKYING>がより顕著になり、現実の風景に対して、象徴的、浪漫主義的な意味合いをもった空景がつけられ、独自の風景画の画業に到達する。

1824 カンスタブル「干し草車」。この代表作にも上記のような手法が用いられている。描かれているのは小川をゆったりとゆく牛舎、光に輝く川面、傍らには犬がおり、木々が光に映える、まさにのどかで平和な田園風景である。しかし、雲の一部には不吉(不穏)な暗さが描かれている。

 1828 ターナーはロジャースの長編詩「イタリア」などの文学作品の挿絵も描いている。34年にもロジャースの詩集で。また、「イングランドとウェールズのピクチャレスクな景観」の版画下絵の水彩画も制作。

 

 

 

1831 カンスタブル「牧草地からみたソールズベリー大聖堂」。牧草地をゆるやかにわたる人と動物の奥に教会がはっきりと見える。そして、雲は不気味なほど沸き立っているが、教会の上空には虹がかかっている。不安と希望、信仰と腐敗という相反するものが混沌として、当時の社会情勢に対する反映も込められている。

 

 

 

 

1834 ターナー「国会議事堂の炎上、1834年10月16日」。当時の現実の事件ではあるが、選挙法改正もさほど大きな変化をもたらさず、貧困者の救済も制限するような施策を検討していた議会に対する、象徴的な意味合いをもたせて描かれたと考えられている。火は浄化の暗喩を持っている。もちろん、火の光そのものに対するターナーの興味も嵩じていたのであろうが…。劇的な意味合いを持つ風景から、渦巻き構図の大気の震えを感じる油彩画が増えていく

 

 

 1837 ロイヤル・アカデミーに常に作品を出品していたカンスタブル、死去。現在では、数多い雲の習作が、近代的な試みとして高く評価されている。

1842〜44 ターナーの油彩画は、大気や光などを表現の中心に向かう。「吹雪−港の沖合いの浅瀬で信号を発しながら、測鉛で水深を測りつつ進む蒸気船。作者はエアリアル号がハリッジを出港した夜、この嵐のただ中にあった」「雨、蒸気、スピード:グレート・ウェスタン鉄道」は、荒れ狂う嵐や激しい雨という自然の物語と、それに立ち向かう人々の行動力と進歩(科学と工業)に対する信頼を表す。ただし、後期の作品は当時は理解されず。

※ ピクチャレスク…通常の美に対し、廃墟などを含め、左右非対称、意外、不規則といったものの中に美的感情を喚起させるもの

※ 崇高…自然や芸術において、圧倒的な壮大さ、または抵抗できない力の感覚によって精神が感化されること。美しさ、巨大さ、壮大さによる畏敬、敬意、感動を喚起する。

美が感覚に快く穏やかな歓喜や幸福感を歓喜するものと仮定すると、崇高は壮大、粗野、危険、神秘、深淵、孤独といったイメージ(驚愕、おののき、不安)を喚起するものと考えられた