美術と近代社会史

red05_next.gifフランス/1840年代末〜1880  

  皇帝ナポレオン三世とパリ・コミューン/コロー、ミレー、クールベ

  

 

トップページ/ピースフルアートランドびそう

美術と社会史 近代フランス目次

美術家DATA 目次

美術家の言葉 目次

ism(美術運動)の証言 目次

絵画の制作技法・構造と効果 目次

 


フランス国内の社会動向

 

第二共和制下で、国民投票にとる大統領選挙が実施され、ルイ・ナポレオン・ボナパルトが選出される(皇帝ナポレオン一世の甥/皇帝の弟のオランダ王の第三子)

ルイ・ナポレオンは、その年に補欠選挙で国政に登場したが、演説は不慣れで外国訛りがあり、性格も矛盾するところ(空想的であり、意志が強く、普段は口数が少ないが場合によりおしゃべりになり、野心家でいても小心でもあり、謙虚であってもうらみをいつまでも持つところがある)があったが、国民的な英雄の思い出を国民が求め、当選した。

1848

 独裁的帝政の野心を持つルイ・ナポレオンは、任期中に軍と警察を味方につけ、王党派とも結束して共和派を弱めていく

1849

ルイ・ナポレオンは、伯父のナポレオンの戴冠式の日にクーデターを起こす。

前日夜半から秘密文書を分けて印刷させ、軍は国会を占拠、反抗の中心になりそうな議員、ジャーナリストを逮捕し、軍と警察はパリの要所を固め、当日、パリの民衆は熱狂してクーデターをむかえたと地方に通達、パリの町には印刷された布告(議会解散、戒厳令など)を張り出す。

一部で反乱が起きるが、軍部が鎮圧。反乱は社会主義者や共産主義者の運動(略奪、暴動)であり、それを正すためと、クーデター反抗をすりかえた。また反抗者の処刑と逮捕が相次ぐ。

その後、干渉による国民投票でクーデターが承認される

1851

大統領の権限が大きい新憲法を発布。再度の国民投票で帝政が承認され、ルイ・ナポレオンは、皇帝ナポレオン三世となり第二帝政が始まる。

1852

皇帝ナポレオン三世、スペイン貴族の子女と結婚。宮廷はヨーロッパ社交界の中心となる。

1853

セーヌ県知事オスマンによるパリの大規模な改装工事が始まり、パリの街の外観は大きく変化した。鉄道網も大幅に拡大。

 

パリ万博開催。これを記念としてガス燈が街にとりつけられた。観光客の眼を奪うとともに、帝政の威容を飾る。

1855

英国と共同してトルコを支援していた、対ロシアとのクリミア戦争で勝利。帝政はさらに名を高め、社会的にも安定する。

 

 フローベールの「ボヴァリー夫人」とボードレールの「悪の華」が、公序良俗をみだすとの旨で裁判沙汰になる

1857

日本と修好通商条約を結ぶ

1858

イタリア統一戦争でサルデーニャ援助を途中で切り上げたため、国民からの不満を招く

1859

英仏通商条約を結ぶ。英国商品に対する保護貿易制を改めて関税を下げる。⇒英国との関係良好を狙い、また自由貿易の体質に産業界が改善されていた

1860

 

1861

 

1862

 

1864

 

1865

二度目のパリ万国博覧会。しかし、経済恐慌によって政治運動も活発化。

1867

 

1868

スエズ運河が開通

1869

帝国憲法が制定される。しかし、60年代の対外政策の失敗から(オーストリア・プロシア戦争での対応、メキシコ侵攻の失敗)すでに皇帝の力は弱まっており、独裁制と議会制の混合となる。

として、ドイツ統一運動を進めるプロシアと、隣接国家の巨大化を防ごうとするフランスは戦争を開始。普仏戦争

皇帝自身がプロシアの捕われの身となり、民衆の不満もあり立法院がナポレオンの退位と決す。

市庁において共和制が宣言される。議会は解散し、共和勢力による臨時国防政府が成立。

1870

プロシアによるパリ攻撃が開始される。プロシア王のドイツ皇帝即位によりドイツ帝国が誕生。フランスは休戦を申し入れ、講和に。ドイツ軍のパリ入場。

しかし、パリ市民は敗北を認めず、その他政府の行動に不満を持つ国民軍が武装。排除しようとした政府軍は逆に国民軍に敗れる。

政府は首都をパリからヴェルサイユに移動。国民軍がパリを占拠し、自然発生的な革命が起きる。こうして自治組織のパリ・コミューン成立宣言が出される。

労働者の生活改善の諸政策、無料義務教育などの政策を出すが、構成員が多様でまとまりがなく、軍事上の優勢を利用せずにいたため、ヴェルサイユの政府軍の反撃を許すことになる。

フランス国民の多くもパリ・コミューンには反対しており、政府の支持にまわっていた。

また、パリの街の整備が既に終わっており、以前のバリケード戦術も有効ではなくなり、激しい攻防の末(「血の週間」と呼ばれる)、政府軍がパリ・コミューンを制圧する。

1871

 

1873

 三権分立、二院制、男子普通選挙を含んだ憲法が発布。

1875

 共和政の安定期に

1877

 

 

 

 

  

 


フランス絵画の動向

 二月革命の影響により、サロンの審査委員による鑑査制度が廃止に。クールベの出品作10点全てが展示される。

 コローの「羊飼いの水浴」が政府買い上げとなる

 

知人であり詩人のボードレールが批評を書いたクールベの作品がサロンで入選。「オルナンの食休み」が2等賞となり、国家買い上げとなる

コローがサロンの審査員となる

ミレーは新政府より依頼された委嘱画を納入。コレラが流行し、バルビゾンへ疎開。以後、定住することになる

 クールベがサロンに「オルナンにおけるある埋葬の歴史画」を出品。一般の埋葬を歴史画として描くという今までにない主題に賛否両論が巻き起こる

 ミレーがサロンに「種蒔く人」を出品

 

 

 クールベ「水浴びする女たち」をサロンに出品。理想化されていない裸体に非難と嘲笑が起こるが、クールベ自身は好んでその論争に加わり話題をつくる。

その作品に対してドラクロワは、不明瞭な主題と肉体を肉塊という形で提示することに画家の思想を見て取って吐き気を催し、ナポレオン三世は、醜悪さに乗馬用鞭で一打ちしたといわれる。

それに対してもクールベは、「そうと知っていたら薄い画布を使用していた。そして絵を破いた皇帝を訴えれば、たいした評判の裁判沙汰になったろう」と笑って答えたといわれる

ミレーはサロンで二等賞を得る

 

 クールベの「画家のアトリエ」が万博展示の拒否を受ける。そこで万博のパビリオンにほど近い場所に、独自のパピリオンを建設して個展を開催(個展の起源ともいえる)。個展のタイトルは「レアリスム−G.クールベ、その作品のうち40点のタブローを展観」。資金援助を受けての個展であったが、入場者も少なく失敗に終わる

コローはパリ万博で一等賞を獲得。ナポレオン3世が「マルクーシスの思い出」を購入

ミレーは万博に3点出品するが2点は落選

 

クールベは批判を浴びることの多い農民風像画から、狩猟や都市風俗画に主題を転向していく。「セーヌ河畔のお嬢さんたち・夏」を出品。その大きさと生々しさはそのままに。やはり批判は受けるが2等賞扱いとなる。

ミレー、「落ち穂拾い」をサロンに出品。その主題が賛否両論を起こす

 コローが油彩画を競売にかけ、相当な額の売上をあげる

 クールベ、ブータンやホイスッラーと知り合う

 ミレーは画商との長期契約が成立し、経済的にやや安定する

クールベ、4年ぶりにサロンに出品し、絶賛を受ける。叙勲されると噂されるが、ナポレオン三世自らがそのリストからクールベを除外したといわれ、二等賞にとどまる。

クールベは豪農に招待されサントに滞在。ここでコローととともに風景画を制作する。

ミレー、「羊飼いの少女」でサロン一等賞を獲得。

ミレー、既に59年に制作を終えていた「晩鐘」を公表

 クールベ、万博に出品。個展も開催するがやはり今回も不入りで失敗する。しかし、名声だけは広まるという宣伝効果をもった

コローの「孤独」をナポレオン三世が購入。レジヨン・ドヌール・オフィシェ(4等)勲章が授けられる

ミレー、万博で一室が与えられ回顧展を行う

ミレー、レジヨン・ドヌール五等勲章を受ける

 

ミレー、最後のサロン出品

クールベが叙勲との報が流れ、クールベは美術総監宛てに辞退の公開状を送付する。それも話題になる。

臨時政府下での美術委員会の議長にクールベが選出される。

コミューンの芸術家連盟に名前を連ねられたミレーは抗議する。

政府軍がパリを制圧し、コミューンの美術代表のクールベ逮捕される。ヴァンドーム広場のシンボルであった(ナポレオン帝政賛美的)円柱破壊の罪で監獄に移送。体長を崩し、療養所に移される。翌年、この収監時のことを描いたのが「サント=ぺラジー監獄での自画像」

クールベ、スイスへ亡命。海景を中心に制作

 

コロー、死去

ミレー、それまで行えなかった夫人との挙式をあげる。その直後に60歳で死去

クールベ、亡命先のスイスで51歳で死去