美術と近代社会史

 red05_next.gifイギリス/19世紀中期 

  ヴィクトリア女王誕生とハングリー・フォーティ、風俗画とラファエル前派

  

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美術と社会史 近代イギリス目次

美術家DATA 目次

美術家の言葉 目次

ism(美術運動)の証言 目次

絵画の制作技法・構造と効果 目次

 


年代

英国内の社会情勢

1830

王ジョージ4世死去。弟のウィリアム4世が後継するが子がいない。

英国の1830年代は完全なる“鉄道と蒸気船”の時代。鉄、石炭の産出量は1810年代の3倍に⇒当然、自由貿易、自由主義経済が発展し、帝国主義的な国策。インドへの進出につぎ、1819にはシンガポールにも進出を果たしている。

1832

選挙法の改正

1833

英国植民地における奴隷制度の廃止

1834

新救貧法制定

1835

自治制都市法の制定。自由主義的改革運動が盛り上がる。

1837

ウィリアム4世も死去。ヴィクトリアに王位継承権がまわってくる

彼女は若干18歳にして国王の重責を担うことになる。彼女は当時の日記にこのようなことを記す。「この地位につけることが神様の御意であるならば全力を尽くして国に対する義務を果たしましょう。私は若くて経験が浅いけれど、私ほどの善意と誠意を持って正しく適切なことを行う人は少ないと信じます」

この文章に、私は、彼女の真面目さと敬虔な精神を感じると同時に、自信過剰で気の強さを私は感じたりしますが…。

1838

戴冠式が行われる。

「人民憲章(ピープルズ・チャーター)」の綱領が作られる。その内容は、男子普通選挙、平等選挙区制、無記名投票、披選挙資格から財産条件を除く、歳費制、議会の毎年の改選。

1840

アヘン戦争となり、本格的に中国へ進出する

ヴィクトリア女王、同族でいとこ同士ではあるが外国人のアルバートと結婚。アルバートは、よき夫であるとともに女王のよき秘書、補佐役となっていくのであるが…。

 

 英国の1840年代は“ハングリー・フォーティーズ(貧困と餓死の40年代)”といわれる。アイルランドの飢饉などで社会的抗議行動(チャーチスト運動)が再燃。

 

女性の地位向上もいまだ遠く、家庭教師か労働者になるしかない。家庭教師の地位も極めて低い。また、針子仕事は非常に見入れが悪く、窮した女性たちは娼婦として身体を売るか自殺に走る。

 

火災を起こした国会(ウェストミンスター宮殿)の再建造。壁画装飾についてヴィクトリア女王の夫・アルバートが指揮を振るい、前ルネッサンス様式のフレスコ画などが作られた。

その主題は“アーサー王伝説”が選択された(礼節、慈悲、寛容、信仰、厚遇、勇気、中世)。また、アルバートは古代絵画のコレクターでもあり、古代芸術の「厳格で純粋な」様式の再生を提唱。

 

 

1848

チャーチスト運動(労働者階級の政治運動)の大規模なデモが起こる。

 

 

 

 

ディケンズやT.フッドなどの文学者が投身自殺する貧困女性たちを犠牲者としてとりあげることにより、娼婦厚生施設や救済活動が活発になっていく。 

マスメディア人としての意義を個人的には感じます。

1850

ディケンズなどがラファエル前派の絵画を猛烈に批判。

その悪評に、出産を終えたばかりで会場に見にいけなかったエリザベス女王が、一目みたいと会場から特別にはずしてくるように命じたとも。その作品は、ミレイの「両親の家のキリスト」

 

1851

 世界で最初の万国博覧会を開催(ロンドン)

新しい機械、植民地からの品々、ヨーロッパ諸国からの展示品などで埋めつくされ、多くの来場者をえて成功。

1852

英国の繁栄は中〜上流階級のみ。ハングリー・フォーティーズの影響で、この年だけで約37万人が移民として他国へ移住。

 

1853

この年から56年まで、英国本土とは直接関係がないが、ロシアとトルコのクリミア戦争が起こる。

英国はロシアのトルコ進出に対して分割提案などをの現状維持を望んでいたため、トルコを支援する。

 

 

 

1857

 貧困者に対して救貧委員会が道路舗装用の石を砕く作業に就かせる。

輸出は激変して失業者が急増。植民地インドではセポイの反乱

1858

ヴィクトリア女王夫妻は、ロイヤルアカデミーで人気を博したW.P.フリスのパノラマ的絵画「ダービーの日」などを鑑賞。王室と内政は実質的に無関係。実質的に象徴的なポジショニング

 

 

 

1861

ヴィクトリア女王の夫・アルバートが死去。彼女はその死に悲嘆し、一時公務に携わることをやめるなどして、側近は苦労する。

 ●参考文献

「世界の歴史 11 帝国主義への道」 執筆 石橋秀雄、山上正太郎、相田重夫、清水博、松井透、吉田輝夫 /社会思想社 発行:教養文庫 1975

「世界の歴史 10 市民革命の時代」 執筆 清水博、山上正太郎、赤井彰、相田重夫/社会思想社刊 発行:教養文庫 1974

社会情勢を詳しく知るにも絶好の書↓

「ロセッティ ラファエル前派を超えて」 著者:谷田博幸 発行:兜ス凡社 1993

「ラファエル前派 ヴィクトリア時代の幻視者たち」 著者:ローラン・デ・カール 監修:高階秀爾 訳:村上尚子 発行:椛n元社 2001

 

  

 


英国絵画の動向

対仏の戦争などでの愛国的感情も、時間とともに冷え、大画面の英雄的歴史画も下火。

中産階級の趣味に合う、居間の壁に合うサイズと教訓的内容をもった風俗画が好まれ、流行。特に英国社会の繁栄を写す風俗画は、人々の自尊心をくすぐる。その中で特に有名なのは、スコットランドの画家・ディヴィット・ウィルキー。ワーテルローの戦いで勝利した英国の戦報に狂気する退役軍人たちの姿を描いて、愛国的心情に訴える手法をとる。これまでの英国絵画の最高の報酬が支払われた。

 

 子供の世界をユーモラスに描くウィリアム・マルレディ、動物を人間的に描くエドウィン・ランドシーアなども人気。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

深夜まで縫い仕事をする貧困層の女性をセンチメンタルに描いたR・レッドグレイヴ「お針子」

 

 1843 ウェストミンスター宮殿内部壁画下絵競技展でワッツが一等を受賞。ロセッティも見ている。

 

 

 1846 ライフ・スクールでミレイとハントが知り合う。ミレイは美術学校で既に油彩画で金メダルをとっている。

 ハントのキーツの詩を主題とした作品をロセッティが見て賞賛。それがきっかけとなり知り合う。

 1848 絵画の改革を目指す若き芸術家たちが、<ラファエル前派兄弟団>を結成。中心はロセッティミレイハント当時の社会情勢の影響が、絵画を形骸化したと判断するアカデミズムへの反発を容易にしたのは確か。

 1849 ラファエル前派兄弟団はその名前の頭文字をとり(Pre−Raphaelite Brotherhood)PRBと署名をし、その意味はメンバー内だけの秘密とした

ラファエル前派は宗教的主題を現実の場面としてリアリティを追求して描き始める。ロセッティの「聖母マリアの少女時代」は好評もラファエル前派の趣旨とは異なる。

ワッツ「溺死」。娼婦に身を落とした後に窮して川へ投身自殺し橋の下にうちあげられた女性を描く。当時の貧困階級のゆきづまりは極めて深刻。

 1850 PRBの意味が公になるとともに、ロセッティ、ミレイらの宗教的主題の絵画が、理想化が加えられていないために、卑しく醜悪で不快なものの極地、などと猛烈な批判を浴びる。悪評が集中したのは、ミレイの「両親の家のキリスト」。大工であるヨセフの仕事場にいる聖家族像。象徴的意味が数多く描かれているが、“マリアが恐ろしいほどのブス、キリストが無惨な赤毛の少年、ヨゼフの大工仕事で奇形したような身体”を持つ、現実のようなリアルさが、徹底的に罵倒された。

 1851 「近代画家論」などを記し著名な美術評論家ラスキンがラファエル前派の絵画を擁護。ラファエル前派の画家たちは、その後、ラスキンと会うようになる。

1852 貧困から移民する人々をF・M・ブラウンが描いた「英国の見おさめ」。手を握り合った移住するカップル。女性の目を遠くをぼんやり眺めているが、男性は画面のこちら側にいる我々(中流階級)を厳しい目つきで見返してくる。

 1853 ミレイがロイヤル・アカデミー准会員に。グループの彫刻家ウルナーがオーストリアへ移住。実質的なラファエル前派の活動は終焉する。

 1854 子牛を運んできた農婦と、娼婦に身を落としたかつての恋人が街角で出会った場面を描くロセッティ「見つかって」

1857 新救貧法から道路舗装用の石を砕く貧困労働者の死を描いたヘンリー・ウォルス「石割り人夫」

1858 ロイヤル・アカデミーに出品されたA.L.エッグ「過去と現在」が話題に。中流階級家庭での妻の不義によって起こった悲劇的な末路を3点で描く。夫が妻の不義を知った場面とその後の妻の娼婦に身を落とした姿、娘たちの貧しい生活ぶり。当時の社会の暗部をはっきりと描き、それが中流家庭にまで及んでいることが衝撃を与えた。

 ロセッティはダンテの『神曲』や『新生』から着想を得た水彩画などを数多く制作し始める。