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ism(美術運動)の証言 シュルレアリスム/もうひとつの現実世界という地平への突破口 |
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シュルレアリスムの作品といったら、どのようなものが思い浮かぶでしょうか? ダリの偏執狂的でエロティックなもの? マグリットの“摩訶不思議”な作品? あるいはイブ・タンギーの荒涼とした砂地に現われた骨のようなフォルムの数々? マックス・エルンストのさまざまなイメージが組み合わさって怪物のようになった作品? あるいはハンス・ベルメールの人体が透けて見える作品? どれもが奇妙(語弊のある言い方ですが)な造形をもった世界です。では、彼らは何故そのような作品を制作したのでしょうか? ここでは、シュルレアリストたちが、どうしてそのような造形の作品を制作していったのかの意図に焦点を絞ってみていきます。 (シュルレアリスムの運動の全体像、発生の要因や社会的背景、シュルレアリストたちにたびたび取り上げられた哲学的思想などに興味のある方は、当コーナーで取り上げている書籍などを一読ください)
■超現実(シュルレアリスム)という地平 「超現実(シュルレアリスム)」という概念は、詩人のギョーム・アポリエールが使い始め、文学の中で展開し始めたものです。それを美術分野で発展・定着させる役割を担ったのが詩人であり、タダ運動にも参加していたアンドレ・ブルトン。ブルトンは「超現実(シュルレアリスム)」というものについて次のようなことを言っています。 アンドレ・ブルトンの証言「夢と現実という、一見いかにも両立しがたいふたつの状態が、一種の絶対的現実、言ってみれば超現実のなかへいずれは解消される」(川上勉 「序論 ダダ・シュルレアリスムと20世紀という時代 『ダダ・シュルレアリスムを学ぶ人のために』発行:世界思想社 1998 p3) この「超現実(シュルレアリスム)」について、やはりブルトンとともにシュルレアリスム運動を当初より推進した詩人のルイ・アラゴンは、つぎのように語っています。 ルイ・アラゴンの証言「事物の本質はその現実の姿となんらつながってはいない。精神によって把握できる現実のほかにもさまざまな関係があり、それらの方がまず先に、偶然、幻覚、幻想、夢となってあらわれる。こうしたさまざまな種別は、ひとつの属、つまり『超現実』のうちに統合され、たがいに両立する」 (アラゴン 「夢の大波」 『コメルス』誌 1924秋 /『岩波世界の美術 ダダとシュルレアリスム』 著:マシュー・ゲール 訳:巖谷國士、塚原史 発行:岩波書店 2000) この言葉だけでは、私なんかは直感的にはわかった気になっても実はよくわからない。本質というものが「超現実」という新たな概念の場でなら現実の姿と統合される、その関係のひとつとして夢とか偶然というものがある、という考え方としての把握しかできません。 だからといって「超現実(シュルレアリスム)」を、あくまでの関係のひとつでしかない“夢”を重要視ししすぎて捉えるのは危険…。
■それは夢の世界を好き勝手に描いたもんなんかじゃない ダダ運動からシュルレアリスム運動において中核的な存在を担った美術家のマックス・エルンストはシュルレアリスムの美術作品について、早とちりに少々うんざりしたような調子で(と私なんかは感じる)次のように語っています。 マックス・エルンストの証言「したがって、シュルレアリスムは、絶えず変化する夢幻的な現実を描く者だと言われているからといって、シュルレアリストが、自分の夢をキャンバスに写し取っている(そうであれば、対象を描写する素朴な自然主義ということになるだろう)とか、シュルレアリストのひとりひとりが、自らの夢の要素を用いて自分だけの小宇宙を創り上げ、そのなかで好き勝手に楽しみ、たちの悪いことをやっている(そうであれば、「時代からの逃走」であろう)とか考えてはならない。 そうしたことが意味しているのは、逆にシュルレアリストは、内界と外界とが境界をなす領域を、自由に大胆に、そしてまったく自然に動き回っているということ、その領域はまだ不透明ではあるが、物質的にも精神的にも完全な現実性(「超現実性」)をもっており、シュルレアリストは、そこで眼にしたものを記録し、自らの革命的な本能がかりたてるところに積極的に身を投げ入れるということなのである」 (マックス・エルンスト 『シュルレアリスムとは何か?』 チューリッヒ、クンストハウス、1934、※「身体と表現 1920−1980 ポンビドゥーセンター所蔵作品から」 編集:東京国立近代美術館、市川政憲、千葉成夫、中村和雄 発行:NHK、NHKプロモーション 1996 p126に所収) どうでしょう? シュルレアリストは、夢による自分だけの小宇宙を好き勝手に描いているという意図は持っていないとエルンストは言っています。 しかし、シュルレアリスムの作品はそう否定されても、そののように見えなくもない。シュルレアリストが好んで使用した自動筆記(オートマティスム)などは、好き勝手に描いている典型のようにさえ見える。さて、この自動筆記の意図は一旦棚上げにして、では他の美術家はどのように言っているのか。特に夢に関連が深そうなダリは、こんなことを言っています。 ダリの証言「私自身、自分の絵を描く時、その意味を理解しないという事実は、それらの絵になんの意味もないことを意味するわけではない。逆にそれらの意味はあまりにも深く複雑であり、整合的であり、意志や意図とは無縁であるがゆえに、論理的直感による単純な分析をもってして捉えられないということなのだ」 (アラン・ボスケ『ダリとの対話』(岩崎力訳)、美術公論社 1983 /千足伸行 「ダリ、または永遠の謎」『ダリ展 1999』 図録監修:千足伸行 解説:ジョーン・R・クロップス、新関公子、山口洋三 編集・発行:NTVヨーロッパ 1999 に所収) ダリはダリであるが故に、その証言の多くはどれもが疑わしさを含んだグレーの証言(本音かどうかは疑わしい)です。何故ならダリは次のようにも言っています。 「私はたんに挑発者であるだけでなく、偽装者でもあるのだ。私がいつ偽装をはじめ、いつ真実を言うのか、自分でもわからない……。他の誰もがしているように、私もどこで深遠なダリがはじまり、どこで頭のおかしい突飛なダリが終わるのか、いつも自問している」 (『わが生涯の芸術家たち』 著:ブラッサイ 訳:岩佐鉄男 発行:リブロポート 1987 p47) そういうダリであるという前提条件に立てば、次のダリの証言は結構意味深でシュルレアリスムのある側面を現わしているのかもしれません。 (「シュルレアリスムとは?」という質問に対して)「それは私自身だ」(ハルスマン写真集『ダリの口髭』より/『ダリ展 1999』 図録監修:千足伸行 解説:ジョーン・R・クロップス、新関公子、山口洋三 編集・発行:NTVヨーロッパ 1999 p196に所収) それではもう一人、まさにシュルレアリストであるブルトンにもいわれていたイブ・タンギーはどう考えていたのか? イブ・タンギーの証言 「芸術作品の創造における驚きというものは、私にとって最も重要な要因である。芸術家自身にとっての驚きが、それ以外の人にとっての驚きと同様に問題なのだ。『驚きが、それ自体無条件に探究されなければならない』(アンドレ・ブルトン『狂気の愛』) 絵は、私の目の前で、その歩みに応じて驚きをあらわしながら展開していく。そのことこそが、完全な自由の感覚を私に与えてくれる。そして、だからこそ私には、計画を立てたり、前もって粗描したりすることができないのだ」 (イヴ・タンギー 『アート・ダイジェスト』所収、ニューヨーク、1954年1月15日) ※「身体と表現 1920−1980 ポンビドゥーセンター所蔵作品から」 編集:東京国立近代美術館、市川政憲、千葉成夫、中村和雄 発行:NHK、NHKプロモーション 1996 p126 内界と外界の境界、偽装と真実の境界、驚きからの展開……アプローチの仕方が異なるので、シュルレアリスムについての考え方が拡散してしまったかのように感じるかもしれません。そんなときに、こうした違いについて補足してくれるのがアンドレ・マッソンです。 アンドレ・マッソンの証言 「私の最初の命題を要約しよう。すなわち、シュルレアリスムの始めから少なくとも二つの相いれない流れが存在した。 一方は、固定した、催眠状態にあるヴィジョンである。他の者に衝動を与えるか、少なくとも驚かせるという効果以前に、対照的な位置にある現実を示そうと、皮肉にもアカデミックな方法の要求に応じるものなのだ。――これは、表面的には成功を収めたし、周知のものである。 そしてもう一方のヴィジョンは、運動する力を信じ、それを表現するために、訪れた霊感を一瞬も無駄にすることなく実行してしまう、眼も眩むような素早さに信頼を置くというものである」 (アンドレ・マッソン「シュルレアリスムについて」、『メディアシオン』誌所収、パリ、1961年秋季号/アンドレ・マッソン『シュルレアリスムの反逆者』、パリ、エルマン、1976年/※「身体と表現 1920−1980 ポンビドゥーセンター所蔵作品から」 編集:東京国立近代美術館、市川政憲、千葉成夫、中村和雄 発行:NHK、NHKプロモーション 1996 p126)
■偶然性への期待 さぁ、ここまできたところで、“シュルレアリスムの法王”と称され、シュルレアリスム運動の理論的支柱として君臨したアンドレ・ブルトンによる、シュルレアリスム・グループの実質的な誕生宣言である「シュルレアリスム宣言(第一宣言)」(1924年)に時代を遡ります。 アンドレ・ブルトンの宣言(一部)「シュルレアリスム、男性名詞、心の純粋なオートマティスムであり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようと企てる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし、道徳上のどんな気づかいからも離れた思考の書き取り。 百科事典、哲学、シュルレアリスムは、それまでおろそかにされてきたある種の連想形式のすぐれた現実性や、夢の全能性や、思考の無私無欲な活動などへの信頼に基礎を置く。他のあらゆる心のメカニズムを決定的に破産させ、人生の主要な諸問題の解決において、それらにとってかわることをめざす」(『岩波世界の美術 ダダとシュルレアリスム』 著:マシュー・ゲール 訳:巖谷國士、塚原史 発行:岩波書店 2000 p219に所収) シュルレアリスムの美術家の証言を何人か聞いた後であるのなら、シュルレアリトたちが、どうしてあのような作品を制作したかの意図がわかるのではないでしょうか。そして、棚上げにしておいた自動筆記(オートマティスム)の意図の問題も解消されます。 補足するなら、ブルトンは自動筆記の役割について「文学と芸術の虚栄をぶちこわすためのかつてつくられた最上の方法」((『シュルレアリスム』 共著:ロジャー・カーディナル、ロバート・S・ショート 訳:江原順 発行:PARCO出版局 1977、p90)と言っています。 どうして虚栄をぶちこわすものなのかは、幾つかの理由があげられるでしょうが、最も顕著なものとしては、自動筆記が現実の意識に根ざした連想ではあっても、理性から離れたその時の意識の“偶然性”という要素を作品の要素に取り込むことが可能だからでしょう。 今でこそ、作品の中に美術家の意識の偶然性や、制作過程の偶然に起きた事象、作者以外の第三者が作品に介入することによって成立する作品などが作られていますが、シュルレアリスム運動以前には、そうした考え方がなかったわけですから。 では、この“偶然”が、どうしてアートとして成立するのか? その話は、参加型のコンセプチュアリスム作品や、ハプニングなどと今回のシュルレアリスムとは意味合いが異なるので割愛しますが、ブルトンは“偶然”ということを次のように位置づけています(あるひとつの作用が働いたときに起き得る“偶然”というものに対して)。 アンドレ・ブルトンの証言「そのとき、欲求は、充足を求めて、それに役立ちうるものだけを利己的に容認しつつ、外的現象に奇妙な力を行使する」(『シュルレアリスム』 共著:ロジャー・カーディナル、ロバート・S・ショート 訳:江原順 発行:PARCO出版局 1977 p61) 偶然における必然性、とまではいいませんが、偶然というものに対して熱い期待をもっていた(信頼していた)…。なぜなら、そこに、今ある世界の別の局面へと跳躍する(あるいは牽引する)突破口を見出したからではないでしょうか。理性だけの世界は結局、第一次世界大戦という戦争を引き起こした。ならば、そこに足りなかったものは何なのか…。私たちはどのようにして次の世界・時代を創り上げていくべきなのか…。そうしたときに、私たちの日常の中に理性や習慣とは異なる別口の要素(“偶然”や“夢”“驚き”)が、実はぽっかり口を開けているところがある。だから、偶然や夢(そのものではなく)を利用することによって…。
■超現実の世界の行方 確実に現実に立脚しながら、もうひとつの現実へと突破を図ったシュルレアリスト。運動の途中で袂をわかったアラゴンは超現実(シュルレアリスム)を次のようにも語っています。 ルイ・アラゴンの証言「それは、最良の場合でも、歩行者の地平線のように、消えていく概念である。なぜなら、地平線と同じように、精神と決して到達しないものとの関係だからである」 そして、ブルトンは、次のようにも語ります。 アンドレ・ブルトンの証言(「シュルレアリスム第二宣言」((一部))「「かつてシュルレアリスムを拠りどころにした者、あるいは現に拠りどころとしている者の、それぞれがとった独自の行き方は、ともかくとして、けっきょく人は認めるであろうが、シュルレアリスムが何よりも志向しているのは、知的かつ道徳的な観点から見て、もっとも全般的でもっとも深刻な一種の意識の危機をまきおこすことであり、しかもその成果が得られるか否かによってはじめて、歴史的にシュルレアリスムが成功したか失敗したかを決定できるのである」 (『岩波世界の美術 ダダとシュルレアリスム』 著:マシュー・ゲール 訳:巖谷國士、塚原史 発行:岩波書店 2000 p272―273) 現在の私にとって、「シュルレアリスムが成功したか失敗したか」の判断を下す意味も意図もまるでありません。ただし、シュルレアリスム運動の意図は、時代を経た現在においても、姿を変えて時に有効でありうると思います…。
(太字は筆者、トビー高橋が独自の判断で行ったものです)
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<シュルレアリスム関連書籍> (表紙装丁を図版の代わり?ということで)
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