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PALB>ismの証言 |
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1841年サロン落選。 1842年サロン落選。 1943年サロン落選。 1844年《黒い犬を連れた自画像》がサロンに初入選。 1845年サロンに5点申請も1点のみ入選。 1846年には8点申請のうち1点のみの入選。 これは、今回の中心人物、ギュスターヴ・クールベの経歴。時代はロマン主義期。サロンの審査基準に不満を持ち、くすぶっていたクールベ。彼はこの年、オランダ旅行に出かけ、一点の作品から、あることを見出したといわれています。 その作品とは、レンブラントの《夜警》。市民たちが自らの治安を守るために、これから見回りにでかける場面。 そして、クールベが見出したこととはなにか? それが今回の証言のテーマそのものでもあります。
■2人の文学者との出会い 1847年、帰国したクールベは、自らが見出し核心した主題をもとに作品を制作。3点をサロンの審査に申請します。その結果は……全て落選。クールベの落胆、いや苛立ちと不満はいかばかりのものだったか… しかし、落選した作品の中の一点《チェロを弾く男》を見て、その才能と主題の先進性を読みきった文学者(小説家)が一人いのです。その文学者とはシャンフルーリー。日本ではほとんど馴染みがないのは当然かもしれません。岩波文庫『フランス文学案内』(著:渡辺一夫、鈴木力衛)の中にも彼の作品名は記されていません。この書籍でシャンフルーリーについて記されているのは次のことだけです。 「フローベルによって写実主義文学が確立されたと申しましたが、当時、文学運動として写実主義を提唱し、その派の首領と仰がれていたのはシャンフルーリー(1821−89)でありました」(p174) サロン審査への不満を抱えたクールベにとって、、自らの作品を理解し、擁護するシャンフルーリーと親交を結んだのは、当然な成り行きでしょう。そして、考え方の類似からクールベは、シャンフルーリーに同調します。そして、シャンフルーリーを通じて、もう一人の文学者と既知を得ます。その文学者とは、詩人としてあまりにも有名なボードレール。 ポードレールは詩人としてだけでなく、美術評論も行っていました。そして、当時、ボードレールはやはり、現存の絵画作品に不満を覚え、画家たちに、次のように語りかけています。 「パリの生活は詩的で驚異に満ちた主題に富んでいる。驚異的なものが大気のように私たちを包み、浸している。ただ私たちはそれを見ていない」 (Le peintre de la vie moderne , publie dans Le Figaro,1863;U“Le croquis de moeurs”, op.cit.,p.457) 「その人こそ画家、真の画家であるだろう、今日の生活から叙事詩的な側面をつかみ出し、色彩とデッサンによって、私たちがネクタイを締め、ワニス塗りの靴を履いたままでどれほど偉大で詩的であるかを、私たちに見せて理解させてくれることができるような人こそは」(“De I'heroisme de la vie moderane ”, Salon de 1846, op.cit.,p.198) 以上、カロリーヌ・マチュー 「ボードレールと現代性」訳:大野芳材 『モデルニテ――パリ・近代の誕生 オルセー美術館展』 発行:日本経済新聞社 1996 p25
■ロマン主義に決別を、新たな主題へ シャンフルーリーたち文学者の写実主義運動は、まさにロマン主義と決別すること。いや、「1848年以降ブラッスリー・アンドレールに、ロマン主義の息の根を止めようとする人々が集った。そこで彼らがともにする昼食の際に中心的役割を果たすのがシャンフルーリーであり、彼はすぐさま「写実主義の教皇」と呼ばれるようになる」 (著:エレーヌ・トゥッサン 訳:吉村和明 「ギュスターヴ・クールベ展カタログ」監修:阿部良雄 編集:石橋財団ブリヂストン美術館学芸部 発行:日本放送協会(NHK) 1989 p128) そして、この運動はデュランティが雑誌『写実主義』を発行して参加することによって社会的な流れを生み出していきます。 そして、このデュランティが雑誌の中で繰り返し主張したことは、ボードレールが上記で話をしたことと同様、クールベがレンブラントの《夜警》から見出だしたことのひとつでもあるのです。その主張とは 「人間の社会的側面を忘れてはならない」(『フランス文学案内』著:渡辺一夫、鈴木力衛 発行:岩波書店 1961) クールベは1849年に人々が食事をしてくつろいでいる場面を大画面で描いた《オルナンの食休み》と、肉体重労働者の姿を描いた《石を割る男たち》を制作。 これらの作品の先進性は、現在では理解しがたいですが、当時大画面で描く対象は、神話的な主題、もしくは歴史画という暗黙のルールが決められており、そのルールに敢然と立ち向かっていった大胆さは見逃していけないことでしょう。 そして、1850年、ついに問題を起こした大作、そしてレアリスムの幕開けを告げると評される《オルナンの埋葬》を制作。この作品について、クールベ自身こう語っています。 「レアリスムの根底とは理想の拒絶であって」「《オルナンの埋葬》はその実ロマン主義の埋葬だった」 ( 稲賀繁美 編 「ギュスターヴ・クールベ 生涯と作品 年譜」 『ギュスターヴ・クールベ展カタログ』監修:阿部良雄 編集:石橋財団ブリヂストン美術館学芸部 発行:日本放送協会(NHK) 1989 p152) そして、クールベの筆は勢いを増し、1851年に火事場への消化活動に向かう消防士たちを描いた《火事に駆けつける消防士たち》を、1852年には《物乞いの女》を、1853年には、神話をモチーフに用いずに女性のヌードを描いた(それもまったく理想化されない)ことにより、スキャンダルとなった《水浴びする女たち》を制作。ここに至り、クールベは社会的には悪名高き画家として著名となったのです。 そんな頃の1854年には、親交を結び続けていたシャンフルーリーの肖像画(《シャンフルーリーの肖像》)を制作しています。シャンフルーリーたちの写実主義(レアリスム)文学運動が、いまだに理解を得られないクールベにとって、心強い存在であったかが想像されます。レアリスムは、一足早く文学の新しい潮流を作り始めていたのですから。 そして1855年、詩人・ボードレールも描き込んだ大作《画家のアトリエ》を制作。この作品がパリ万博美術展への出品を拒否され、万博会場近くに自らパビリオンを建設して、そこで展示したこと(個展の開催・個展の起源)は、あまりにも有名な話です。 そのカタログ序文でクールベは、ついに絵画においてのレアリスム(写実主義)宣言を行います。 「私はただ単に伝統に対する完全な認識のなかから、自分の個性というものについての理にかない独立した感情を汲み取りたいと思ったのだ。……創造するために識ること、それが私の思想である。……生きた芸術をつくりだすこと、それが私の目的である」 (『レアリスム』のカタログ序文) ※ 『モデルニテ−−パリ・近代の誕生 オルセー美術館展』 編集:高橋明也、日本経済新聞社 発行:日本経済新聞社 1996 p71 「自分の意見と評価にしたがって、時代の風俗や様相を翻訳すること……要するに、自分たちの時代の芸術を創りだすことである…」 ※ ジャン=ジャック・フェルニエ(クールベ美術館館長) 「クールベ、自然と文化の掛け橋」 翻訳:中村隆夫 『開館30周年記念 クールベ展――自然と女性――』 監修:ジャン=ジャック・フェルニエ 発行:栃木県立美術館、株式会社アート・ライフ 2002 p11 しかし、この個展は失敗し、翌年の1856年、クールベはやはり大作(横幅2m超、縦1.8mほど)で、河畔の木蔭にショールをひいて昼寝をする豊満な女性たち(娼婦ともいわれる)を描いた《セーヌ河のお嬢さんたち》を制作したの後、ドイツへと旅立ちます。
■クールベの精神的移行 クールベがフランスを留守にしていた1857年、写実主義文学における2大代表作が続けて刊行されます。田舎医師の若い後妻が不倫をして自殺した現実の事件をもとにした、フローベール作の『ボヴァリー夫人』、そしてボードレール作『悪の華』。 この2作は、公共風俗秩序を乱すものとして告訴されますが、フローベールは勝訴し、この裁判で逆に話題となった『ボヴァリー夫人』は爆発的に読まれるようになります。 1859年、クールベは自身のアトリエにおいて「レアリスムの祝宴」と呼ぶ盛大な会合を開催します。クールベ自身にとっての勝利宣言と呼ぶべきなのでしょうか。1861年には、アンヴェールの芸術家会議において、クールベに敬意を表す「レアリスムの宴」が開催され、レアリスムは完全に社会においても認知されたといえます。 しかし、クールベはこの「レアリスムの宴」が開催される頃から、社会的側面をクローズアップした主題が徐々に消えていくのです。クールベは次のように語っています。 「自然とは……自分たちの時代の思想や現実に自分の才能を適用するための媒介でしかない」 「私はこう出張する。絵画とは本質的に具象芸術であり、実際の事物や実在するものの描写によってしか成立し得ない……美は自然の中にあり、多様な形態をとる現実の中に見出される」 『開館30周年記念 クールベ展――自然と女性――』 監修:ジャン=ジャック・フェルニエ 発行:栃木県立美術館、株式会社アート・ライフ 2002 p10 「美は自然の中に存在し、さまざまに形を変えて現実の中に姿を現す。……美は真実と同じように、人が住む時と、それを感じることができる個人とに関わっている」 (クールベが弟子に宛てた書簡の中で 1861年7月25日)※「ロー・コレクション 西洋絵画500年の巨匠たち展」 監修:マルク・レステリーニ、千足伸行 発行:アート・ライフ 1999 p150 クールベはレアリスムの精神を持って、自然から現実を見つめる(解釈する)自然主義的な発想に進展・移行していったというべきなのでしょう。 そして、写実主義の文学者たちも縁遠くなっていきます。クールベが友人同士の間の話として語った暴露ネタ(オフレコ)をもとに、シャフルーリーが作品を書いたことがもとで(1857年)、そしてボードレールとはそれ以前から疎遠になっていた関係が1864年には完全に途切れてしまいます。 そうした1863年、サロンに落選した作品を集めた落選展で、一点の作品がスキャンダルを呼び起こします。その作品がマネの《草上の昼食》。 マネは、こういっています。「自分の時代に忠実であらねばならない、そして、目に見えるものを描くことだ」 (『週刊グレート・アーティスト12 マネ』 監修:中山公男 監修補佐:湊典子 発行:同朋舎出版 1990 p5) 近代的な社会生活の主題を取り上げ続けたマネ。それは印象派へと引き継がれていくのです。
(太字は、筆者の私、トビー高橋が独自の判断で行ったものです。また、これらは既に記述したもののほかに、●「権力にないがしろにされた男 ギュスターヴ・クールベ略年譜」『開館30周年記念 クールベ展――自然と女性――』 監修:ジャン=ジャック・フェルニエ 編集・発行:栃木県立美術館、株式会社アート・ライフ 2002も参考にさせていただきました
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<ギュスターヴ・クールベ関連の書籍>
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