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ism(美術運動)の証言 |
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それまでの文明の盲目的礼賛が、第一次世界大戦を招いた元凶であると感じた美術家、文学者たちの新たな模索行動からダダ運動は始まったといわれます。そして、いわゆるダダ的行動は、チューリッヒとニューヨークでほぼ同時期に発生し、ベルリンなどへと波及し…。本来は、その恣意的行動の数々を丹念に追うことがダダ理解のための最善策なのでしょうが、それは専門書におまかせします。 ここでは、ダダの中心として行動した美術家、文学者などの証言を列挙していくことによって、ダダの本質とはどのようなものであったのかを考察していきます。
■チューリッヒ・ダダ 世界大戦の中で、その混乱とは無縁であったチューリッヒ。そこには、さまざまな国から芸術家たちが集まり、交流が生まれます。そして1916年美術系キャバレー「キャバレ・ヴォルテール」の開店を試みたのが、他国からの滞在者、フーコー・バルとヒュルゼンベック。そこにエミー・へリングス、ジャン・アルプ、トリスタン・ツァラらが合流し、ダダ的活動が開始されます。彼等は当時、何を感じていたのか… 音楽家であったヒュルゼンベックは次のように証言します。 「戦争を通じて、ゲーテ、シラー、そして美も行きつくさきは暴行、流血、殺人でしかないと悟った」「そのためぼくらの心はショックで凍りついた」(上記、『マルセル・デュシャン』 著:カルヴィン・トムキンズ 訳:木下哲夫 発行:みすず書房 2002 p195) ジャン・アルプは、より熾烈な言葉でより踏み込んだ証言をします。 「これらの仕事は、線、表面、フォルム、色彩で構築されたものである。永遠へ、人間を超えた不可知のものへ近づこうとしているものだ。嫌悪をもってエゴチスムから遠ざかるものだ。人間の唾棄すべき低劣さを憎み、形姿を、絵画を憎むものだ。ギリシアの幻像的な彫刻、ルネサンスの幻像的な絵画は、人間の本性を過大評価させ、人間を分離と不和に導く。……再現とは偽造だ。……芸術とは真実であり、共有の真実は、個別性を超えてひとつの光明となるべきものである」 (小川栄二 「生成するフォルムの狩人 展覧会アルプ展」 『美術手帖1985年10月号』 p172) そして「キャバレ・ヴォルテール」のオーナーであり、文学者であったフーコー・バルは… 「問題は人間であって、芸術ではない」 (宮島久雄 「ダダ/都市のドキュメント」 『美術手帖1984年10月号 特集 ダダ ピカビア+マンレイ』発行:美術出版社 p51) 短い言葉ですが、ダダの本質のひとつの側面を表わしているのではないでしょうか。わかりにくい? では「キャバレ・ヴォルテール」におけるダダの初期活動についてはどのような感想を持つでしょうか。ジャン・アルプの証言では… 「大混乱のきわみ。まわりの人々は叫び、笑い、いろんな身振りをしている。僕たちは中世の『ブリュイティスト(雑音派)』さながらに愛の吐息、しゃっくりの連発、詩、牛の啼き声、猫の啼き声を応酬しあいました。ツァラはオリエントの踊り子のヘソのようにボタンをもぞもぞと動かし、ヤンコは見えないバイオリンを弾き、弓を動かしたり引っ掻いたり、聖母の顔の化粧をしたへニング夫人は股割りを披露しています。ヒュルゼンベックはひっきりなしに大太鼓をたたき、石膏のように真っ白い顔のバルがピアノで演奏しています」 (『岩波 世界の美術 ダダとシュルレアリスム』著:マシュー・ゲール 訳:巌谷國士、塚原史 発行:岩波書店 2000) 乱痴気騒ぎのようでますますわかりにくい? こうした行動に出た真意については、「ダダの夕べ」におけるバルの演説が解いてくれるかもしれません。 「言葉が姿をあらわす。言葉の肩、脚、腕、手だ。アイ・オウ・ウー。人はそれほど多くの言葉を外に出すべきではない。詩の1行はこの呪われた言葉にしがみつくすべての猥雑さを取り除く機会となる。ある株の仲買人たちの手でそこに置かれたかのような言語、貨幣ですべすべにすり減った手だ。私は言葉がおわり、そしてはじまる場面に存在する言葉を欲している。ダダは言葉の心臓だ」 (『岩波世界の美術 ダダとシュルレアリスム』 著:マシュー・ゲール 訳:巌谷國士、塚原史 発行:岩波書店 2000 p54) ダダが内包する力のひとつを垣間見せてくれます。その側面とは異なりますが、よりわかりやすい補足説明のために、ヒュルセンベックの証言を… 「子供がはじめて口から発する音声は原始性を、ゼロからの出発を、われわれの芸術に新味を表現する」 (上記、『マルセル・デュシャン』 著:カルヴィン・トムキンズ 訳:木下哲夫 発行:みすず書房 2002 p195) さらに上記とは異なるダダの側面を示すのはアルプ。自身は、こうした集団によるダダ的行動以前から、ダダ的な制作(ちぎった色紙を紙の上に落として配置したコラージュ作品)を行っていました。ジャン・アルプの証言… 「これらの絵画は、意味や知的な意図がなくとも、それ自体が『現実』である。われわれは(中略)基本的で自発的なものが全的な自由のうちに作用することを許した。面の配置、及びこれらの面の比例と色彩は、純粋に偶然に依拠していると思われたので、私は、これらの作品は自然と同様に偶然の法則によって秩序付けられていると宣言した。私にとっての偶然とは、一つの計り難い存在理由の、すなわち完全な形では近づくことが出来ない一つの秩序の、単に限定された一部分に過ぎない」 (『現代美術の歴史』 著:H.H・アーナスン 発行:美術出版社 1995 p227) フーコー・バルが運動から退いた後、その活動を中心を担ったトリスタン・ツァラは“新しい再生への道程”に到るために、ついに禁断?の“破壊”的側面を強めていきます。それはダダ運動と自身のプロパカンダ、あるいはアジテーター的な役割をも強く意識してのものでしょうが…。 ツァラによる証言 (「ダダ宣言」(1918)の中で) 「ダダは何も意味しない……新聞によればクルー族の黒人は聖なる牛の尾をダダと呼ぶ。立方体と母親は、イタリアのある地方ではダダと呼ばれる。それは玩具の木馬や乳母を指す語でもあり、ロシア語とルーマニア語では二重の肯定もダダである」 「私は宣言を書くが、何も望んでいない。それでも私は何ごとかを語っている。原則として、私は宣言には反対だ。原則というやつにも反対なように。私がこの宣言を書くのは、人が正反対な行動を同時に、新鮮な空気を一呼吸するあいだにできることを示すためだ。私は行動に反対するが、絶えざる矛盾と肯定にも賛成する。私は賛成でも反対でもない。そして私は説明しない。なぜなら、私は良識というやつを嫌悪しているからだ。 『汝の隣人を愛せ』は偽善だ。『汝自身を知れ』はユートピアそのものだが、もっと受け入れられる。というのも、そこには悪意が含まれているからだ。情けは無用だ。殺戮のあとで私たちに残されているのは、浄化された人類への希望だ。 絵画は幾何学的に平行だと確認された2本の直線を出会わせる芸術である。カンヴァスの上で、私たちの目の前で、新しい状態と可能性にしたがって移しかえられた世界の現実において、そうするのだ。 この世界は、作品のなかで特定も限定もされていない。それは無数の変容において観客に属している。創造者にとって、世界は原因も理論もない。秩序は無秩序であり、私は非・私であり、肯定は否定である」 (『ダダとシュルレアリスム』 発行:岩波書店) そしてツァラはこんな名言も吐いています。 「さまざまな色の小便をする権利を」 (「美術手帖1985年10月号 特集:パフォーマンス」 発行:美術出版社 p65) ダダが従来の価値基準への否定・破壊(それを反美術というとは私は思いませんが)と新しい可能性への模索だけでなく、巨大なイデオロギーや軍事力にものをいわせて、単一的な世界観を創出しようとするものに対する絶妙な言い回しだと、私などは感じてしまいますし、事実、チューリッヒ・ダダの根底にはそうした危機感がより強かったというのは、それまでの証言で明らかでしょう。
■ベルリン・ダダ ベルリン・ダダは、ドイツ革命後の政府、社会情勢に失望したグルーブにチューリッヒ・ダダに参加したヒュルセンベックが加わり、高まりを見せます。 チューリッヒからドイツへと渡ったヒュルゼンベックの証言 (ベルリンでの「ドイツ最初のダダ講演」のなかで) 「ダダイズムは何か新しいものではなくてはならない、というのはそれは発展の先端に立っているからである。そして時代は、変えられる能力を具えている人間と共に変わる」 平井正 「非神話化」からの視点 ベルリン・ダダの精神 『美術手帖1984年10月号 特集 ダダ ピカビア+マンレイ』発行:美術出版社 p21 ラウール・ハウスマンの証言 (『デア・ダダ』第2号掲載「ドイツの俗物をやっつけろ!」より) 「ぼくらはポツダム・ヴァイマルの拘束力に反抗する…ぼくらはすべてのものをぼくら自身の手で創ろう――ぼくらの新しい世界を! ダダイズムは、現代唯一の芸術形式として、表現手段の更新のために、そして秩序を愛するブルジョアの古典主義的教養理想に反対して、その末裔である表現主義に反対して、戦ってきたのだ! クラブ・ダダは、……国際的反ブルジョア運動である! ……ダダイストは、フマニスムスに反対し、歴史的教養に反対する! ダダイストは、自分自身の体験を擁護する!!」 (『表現主義の理論と運動』 発行:河出書房新社 p371/平井正 「非神話化」からの視点 ベルリン・ダダの精神 『美術手帖1984年10月号 特集 ダダ ピカビア+マンレイ』発行:美術出版社 p20に所収) ここにチューリッヒ・ダダが内包していた多要素は、削ぎ落とされてより単純化している……、というよりも世界大戦の中心となり、かつ敗戦国となった悲哀が大きく影響しているといえないわけではありません。
■NYのダダ チューリッヒとほぼ同時期に発生したといわれるNYのダダ。やはり、ここにも世界大戦を逃れてアメリカへと渡った西欧の美術家たちが大きな役割を果たします。その中心は、1913年の「アーモリーショー」で渡米を果していた?マルセル・デュシャンとフランシス・ピカビア。 デュシャンはアメリカに渡った後にレディメイド作品を発表し、その意味合いを語っています。 「『芸術』とは『つくる』こと、『手でつくる』ことを意味するのですか。つくるかわりに、私はそれをレディメイドの物として受け取る――ということは、レディメイドは、芸術を定義することの可能性を否定する形式ということになる」(『美術手帖1981年8月号 特集:デュシャン』 発行:美術出版社 p52) 一方、ピカビアは「上品ぶったしきたりをはるかに越える豊かさ、贅沢さ、愛に満ちた軽快な進行。愚か者の好きな品行の良さもなく、内容のないのに気位ばかり高い芸術性など、はなから求めない」(『マルセル・デュシャン』 著:カルヴィン・トムキンズ 訳:木下哲夫 発行:みすず書房 2002 p268) と機械に人間的な意味合いを持たせた、図面のような簡素な、しかし見方によってはエロティックな新機軸を展開していきます。 こうしたNYのダダは、やはりチューリッヒのダダとは趣が異なります。デュシャンの証言をこうです。(1946年の回想として…) 「ダダは絵画の物理的な側面への極端な抗議だった。形而上学的な姿勢だった。それは「文学」と密接にまた意識的につながっていた。私がいまだに強く共感するたぐいの虚無主義だった。1つの精神状態から脱却するため――即時的な環境や過去の影響を回避するため――の方法だった。 クリシエ[常套手段、月並みなもの]から自由になる方法。ダダのやみくもな勢いは下剤としてとても役立った。当時、私はそのことをひとえに感じていて、自分自身の内部で下剤作用を起こす欲求が強かった」 (『岩波 世界の美術 コンセプチュアル・アート』著:トニー・ゴドフリー 訳:木幡和枝 発行:岩波書店 2001 p49 そして、チューリッヒのダダと自身たちのNYにおけるダダとの大きな違いについて次のように証言しています。 「あれ(NYでの)はダダではなかった」「それはつまり、ダダは断然行動を起こそうとした」「ラブリーやジャリのように、ただ本を書くだけでなく、世間に喧嘩を売っていた。喧嘩するとなると、同時に笑うのは容易ではない」 (『マルセル・デュシャン』 著:カルヴィン・トムキンズ 訳:木下哲夫 発行:みすず書房 2002 p196)
■その後のダダ 急速に広まったダダ運動は、世界大戦の終結後には、始まりと同じように急速に運動としての求心力を失っていきます。 その理由については、ピカビアの次のように証言で充分でしょう。 「ダダは自由と生きることの精神を求めていたが、今や成功譚となり、キュビスムと同じたんなる運動になってしまった。今やダダの法廷、弁護士、そのうち警察まで登場するのでは……晴れがましいことは私の好みではないが、雑誌『文学(リテラテュール)の幹部たちは晴れがましい人士そのものだ。私には無作為に歩き回るほうが合っている。街路の名前はほとんどどうでもいい。主観的になにか新しいものの幻想を作らなければ毎日は同じような繰り返しだが、ダダはもはや新しくはない』 (『岩波 世界の美術 コンセプチュアル・アート』著:トニー・ゴドフリー 訳:木幡和枝 発行:岩波書店 2001 p49 しかし、ダダ運動は終わったとしても、ダダが終わったわけではありません。ダダは小さく拡散しながら潜伏し、現在においても生き続けている……そして、それこそがダダの本来のあり方でもあるのです。 ダダの中心人物であったツァラが以前から言っていたように。「真のダダは反ダダだ」と。
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<ダダ関連の書籍>
オススメの1冊 『ダダとシュルレアリスム 岩波 世界の美術 』 著:マシュー・ゲール 訳:巌谷國士、塚原史 発行:岩波書店 2000
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