概要
モネとルノワールの主観的な絵画の発展
この名称は、1886年に批評家フェリクス・フェネオンによって、スーラとその信奉者たちを指すために作られた。新印象主義は、モネとルノワールの主観的な(印象主義的な)絵画の発展であり、また、修正である。
スーラがアヴァン=ギャルドのアンデパンダン展に
この運動の始まりは1884年で、スーラがアヴァン=ギャルドのアンデパンダン展に最初の大作《水浴》(1883-84)を出品した年である。同年、彼が出会ったポール・シニャックが、のちにこの芸術運動の宣伝係兼理論家になった。
スーラが1891年に死去
ピサロのような魅力的な転向者を惹きつけたにもかかわらず、この運動は才能ある創始者の死後は途絶えてしまった。
スーラが1891年に死去したとき、彼の考えを引き継こうとする派は一つもなかった。
新印象主義の重要性
シュヴルールの『色彩の同時対比の法則』
新印象主義の重要性は、光の再現に新しく科学的厳密さを導入しながら、印象派のさまざまな目的を統合しようと試みたことにある。
M.E.シュヴルールの『色彩の同時対比の法則』
新印象主義を背後で支える理論は、科学と美学のさまざまな考えを折衷的に選択することに基盤をおくが、それにはM.E.シュヴルールの『色彩の同時対比の法則』(M.E.Chevreuil,De la loi du contraste simultane des couleurs,1839)も含まれ、そこには、ある色の知覚がもう一つの反対色と並置されることによって、いかなる影響を受けるか説明されていた。
0.N.ルードの『現代色彩論』
アメリカの0.N.ルードの『現代色彩論』(O.N.Rood,Modern Chromatics,1879)や、フランスのシャルル・ブランの『デザイン技術教則本』(C.Blanc,Gramma-ire des arts du dessin,1867)も同じく典拠になっていたが、後者では、ドラクロワの精巧ではあるが非科学的な理論について論じられている。
ダヴィッド・シュッテ
新印象派は、エコール・デ・ボザールの美学教授ダヴィッド・シュッテの美学論にも影響を受けたが、彼の著書『美学通論とその応用』(D.Sutter,L'Esthetique generale et appliquee,1865)は、科学理論と絵画制作上の問題との橋渡しとなった。
新印象主義の基本原理
新印象主義の基本原理は、カンヴァスに並置された二つの色は視覚的に混合され、パレット上で混合された色よりも明るい色調を作り出すということである。この結果生まれたものが「分割描法」と呼ばれる技法で、混合されていない色を少しずつ使用することによって、従来の絵画にはなかった明るさ、輝き、調和を観賞者に提供する。
点描画法
規則的に並ぶこれらの小さな点を指すために、「点描画法」という用語を用いることもある。しかしながら、新印象派の絵画、とりわけ1880年初めの絵画が、すべてそのような絵具の使い方を示しているとは限らない。
アンリとスーラ
かくて新印象主義は、人間生活および科学のあらゆる面に類似点を見出そうとする実証哲学の信条表明とみることもできよう。
シャルル・アンリ
スーラがそれほど確信をもって借用したわけでもない理論の中には、シャルル・アンリの考えも含まれており、アンリが1885年に発表した「科学的美学に関する序説」(C.Henry,“Intoroduction a une esthetique scientifique”)という論文では、色と線がいかにして観賞者の心に情動を呼び起こすかについて、科学的説明を提起している。
美学の分度器
さらにアンリは、情動の程度を測定するために、「美学の分度器」を考案した。これらの理論がいかに信じがたいとはいえ、スーラの《奇妙な踊り》(1889-90)のフォルムと色調の配置は、アンリの考えに負うところ大である。
堂々たるコンポジション
スーラが創り出したこれら技法の結果として生まれたのが堂々たるコンポジションであり、古典的理想がもつ活力をモダニズム絵画の中にとり戻した。
シニャック、クロッス、リュス、ヴァン・レイセルベルへ
しかしながら、スーラの信奉者たち―シニャック、クロッス、リュス、ヴァン・レイセルベルへ―の手にかかると、新印象主義の装飾的な面が、スーラにみられた表面と構造のあいだの緊張をたちまち圧倒してしまい、その代わりに、皮相的で、いくぶんは象徴主義的な絵画の中で、この技法の新奇さに焦点を当てることになった。
出典・参考文献:『美術史の辞典』東信堂(1998年)